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「アクティブラーニング」と、どう付き合っていく?②

 毎回トップに写真を掲載するんですけど、あまりにも内容とかけ離れていて自分でもおもしろい。
 今回は先月末に初めて家族旅行をしたときに撮った写真。うちのこどもは生まれて初めて見る大海に若干の恐れをなして私の首に腕を回して、襟をきゅっと掴んでいた。海のように深く大きくなれ。

三つの要素と実践

 前回はアクティブラーニングの記事第一弾として、「アクティブラーニングの称揚と同時になされる一方的な講義って本当に悪なの?」という話から始まった。「悪」と決めつけるのではなく、「他者による飛躍」をもたらすものとしての価値を認め、アクティブラーニングとのハイブリッドを目指していくべきだ、と結論づけた。

 一方で、特に国語科において顕著であるが「講義調の授業」に縛られている事態も起きている。生徒が「客体」でしかない状況だ。そのような授業展開の中で、学校教育の中で決定的に欠如している観点はいくつかある。

 今回は私が授業で留意している三つの要素に着眼点を置きながら、その着眼点に伴う実践をまとめていく。去年度行った授業でよかったと思えた実践なので、自分のために整理しながら、いろんな人に読んでもらえるようにしたい。

 なお、私が想定しているのは私立中堅進学校の高校で行われる現代文の授業である。古文の授業も行っているが、まだ十分な授業実践を展開できていないので、今年度がむばる。

①自ら論理を組み立てる営み

 国語の授業では、教員が板書し、その板書をノートにうつし、論理構成を掴む、という授業展開が一般的となっている。まさに「講義調の授業」だ。
 この授業形式にも価値はある。テクストの論理構成を抽出する方法はどのようなものなのか、ということを生徒に示し、生徒はその方法を身体を使って模倣していく。よく言うように「学ぶ」は「まねぶ」であり、模倣することで技術を習得していくということは学習において必須事項だ。

 しかし、他者が抽出した論理をただただ受け入れるだけでは、「自分で論理を抽出する力」は養われない。
 新学習指導要領で設定される「現代の国語」の欄にも生徒が身につける事項として次のように書かれている。

文章の種類を踏まえて、内容や構成、論理の展開などについて叙述を基に的確に捉え、要旨や要点を把握すること。
「現代の国語」C読むこと (1) ア

 国語の授業の落とし穴としてよくあげられるのは「どんな能力が身についたか」ではなく「なんの文章を読んだか」ということで語られるということだ。
 「『源氏』を読んだ」とは言うが「『源氏』を読むことで○○という能力を培った」とは語られない。
 先にあげた事項も、「○○という文章の内容や構成を捉えて把握する」という個別の文章に対する目標ではなく、「普遍的な文章の内容や構成を捉えて把握する」ことを目標としなければならない。「講義調の授業」の弱点はここにあって、一つの単元から普遍的な力を身につけなけらばならず、そうするためには「自らが論理を抽出し、整理をする」という営みを授業の中でしなければならない。いくら教員が美しい板書案を考えても、それを模倣するだけでは普遍的な力は身につかない。

自ら論理を立て、アウトプットする授業実践

 これらの問題点を踏まえながら現代文の授業にとりかかった。
 端的に言えば、「生徒が自分で板書案を作る」という授業だ。
 前期のうちは私が講義形式で授業を行い、論理の立て方、整理の仕方を伝えていき、後期に入ってからその論理の立て方を自分で応用するように発展させていった。

 一回目の単元では、初めから意味段落が三つに分かれていたため、三人一組になってそれぞれA、B、C段落で担当を決め、それぞれがその意味段落の板書案を作る。もちろん、最後の段落を担当する生徒はそれまでの内容も把握しなければならない。
 板書案が出揃ったところで、それぞれの生徒がグループ内で自分が作った板書案を基に授業していく。教員はあらかじめ生徒から板書案を集め、グループの人数分印刷をして配布をした(この辺はICT化の流れによってペーパーレスになってくれるとうれしい)。
 気をつけたのは、聞いている人は授業している生徒に対して質問をすること。論理のつながりや、語句の知識を授業者から引き出すことで、互いに内容理解を深めていくように促した(ただ、質問する力もつける必要がある。まだ不十分だった)。

 意味段落が三つくらいの文章だと1時間の授業の中で全員が説明し終わる。授業しあったところまででひとまず授業は終わり。

 その後、私がPowerpointを使いながら論理の確認をしていき、その上で批判的な読解を付け加えていく。生徒は私の授業を見ながら「自分の授業と先生の授業はどの点が違って、どの点が共通しているのか」「先生の説明よりも自分の説明の方が端的なのではないか」など、私の授業を相対化しながら自分の板書案・授業を評価する。

 私が2コマほど使って授業をして(内容は生徒が自分で掴んでいるので展開は早い)、最後に振り返りシートを書いて単元を終了する。

生徒の感想など

 私自身、なぜ文章を論理的に読解できるようになったか、と聞かれれば「授業をやってきたから」としか答えられない。「講義調の授業」の最大の弱点は「授業者が一番力がつく」ということだ。生徒が力をつけるには、生徒自身が授業をするのが一番早い。しかし、やりっぱなしにするのではなく教員も授業をすることで、生徒が自分の授業を評価する営みも設定しなければならない。

 実際、みんな楽しそうにやっていた。「話すこと・聞くこと」の項目にも対応することができ、教員はファシリテーターとして各班の授業展開を促進するように気配りをする(これが一番疲れるけど)。

 生徒からも「疲れたけど楽しかった」「自分で内容を把握することで、より深い理解ができた」という評価を受けた(授業風景の動画もあって、アップしたいけどさすがにそれはまずいから誰か見に来てくれ)。

 「自ら論理を組み立てる営み」を繰り返すことで、様々な論理展開の文章にも対応できる力を養う。そうすれば「○○という単元をやった」という言説だけで語れる国語の授業から脱却できるはずだ。生徒にも「自分で論理を組み立てる力をつける授業だ」とはっきり伝え、生徒がなんの力を伸ばすために今の単元を行なっているのか、ということに自覚的にさせなければならない。

 やばい! こんなに続くつもりはなかったのに、長くなったからあと二つの着眼点はまた後日にあげます!! なんで2,700字も書いてるの!!??
 こどもが朝寝から起きた! 遊ぶ! ばいばい!

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