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私はいないという気づきから🕊

記事を整理して、
このnoteを再出発することにしました。
以前の記事も公開にしておきたかったけれど、見た目的にも、内容的にも分かりやすくできなかったんで、思いきって引っ込めました。

気づけば、このnoteを書き始めて、一年以上が経っておりました。
このnoteを書き始めたきっかけは、突然訪れた世界全てのものと一つになるという到底理解し難いながらも、強烈であった体験。と、自分の中に響いている声のようなもの、地球という星が迎えている転機というものに気が付いたことでした。

私は、目に見えている世界のことも、見えていない世界の事も、何一つとして知らなかったのだ。ということに気が付いたのです。

そこから、漠然と襲いかかってくるような、これから来るとされる未来のために自分にできることは何か、すべきことは何か、必要なことは何だ、いらないものは何だと、自問自答を続ける日々。
この世界に起きていることは何なんだ、この世界は何なんだ!と、見えない何かに納得したい日々が続きました。

その日々を経て、訪れた大きな大きな気づき。
私の納得したかった答えが、欲しかった答えが、自分の内側から現れた瞬間でした。

時が止まるような、無限を感じるような、静かな一瞬がフッと訪れました。

『私はいない』『この世界の全ては付けられた意味で固められている』
『個なるものはない』『泡のようなものだ』『全てのものに境界線のようなものはない』『色がない』『全てに実態がない』そのようなことに、あ〜〜〜〜・・・うわ〜〜〜・・(深い納得)と、気づいたのです。

立っている地面すら抜け落ちるような、底抜けに透明で静かな世界がそこにはありました。

それは、一番初めに感じた、全てのものと一つになった時の感覚の延長線上にあることをすでに知っていました。

今、多くの人が持つ共通認識として、『私』と言うものが存在し、『その他』の人やものが存在し、その『私』が自由に意志を持って人生を展開していると言うものだと思います。
それは個人として存在する『私』と言う視点を通して、『私』の視線の先に現象界を見ればその通りだと言えます。

が、『私』と言うものが消え去った、一つであり全てと言う領域から見た視点で言うとするならば、全ては決まっています。全てが今起こっており、時間は存在せず、自由意志というものは存在し得ないのです。

全ては反応のし合い。それがただ起きて、現れて消えて行く。そこに時間の流れは無い。
ひとつづきの全なるものが様々に形を変えていくさまの一部分を切り取ってそこに解釈を付け、物事を意味付けし、固定して、その変化を時間と認識し、あたかも個として沢山のものが存在しているように場面場面を切り取って見ているというのが事実だったのです。

その意味づけによって、あっちへこっちへ振り回されています。

今起こっていることですら、実態のない幻のようなものです。
カラッポのように感じるかもしれませんが、その実態の無い静けさの中に全てを有しているという、言葉では決して表すことの出来ない領域こそが私たちそのものだったのです。

これは事実以外の何物でもないのですが、このような話は、頭では理解することの難しい突拍子のない話かもしれません。
言葉が持つ性質上、言葉は真理の輪郭をなぞることくらいしか出来ないのです。

しかし、何と言っても絶対的な事実というのが、皆、すでにそれであるということ。
誰ひとつ、何一つ、その中から外れて存在しているものなどないということ。

そして、私が気づいたようにこの事実は人々の共通認識として広まっていくということ。

全ては、どうやったって進化反映の方向にしか進めないのです。

人間目線で見た善悪の判断では計ることの出来ない大きな、大きな流れの中にしか居れないのです。

私たちは、何も失っていないし、何も得ることもありません。
向かうべきゴールなんてどこにもないし、ここではないどこかなどない。
探すべき使命なんてものもないし、あるとするなら今この瞬間そこに存在して生きていることでみんな現在進行形で果たしてる。
なるべき本当の自分なんてものもない。
どんな人もそれ以上になることも、それ以下になることもないし、全てが今この瞬間に完結します。

しかし、この事実は、捉え方によっては薬とも毒ともなる話で、何も得るものがないのなら、何もしなくても良いのだ。という方向に捉えてしまうとこの事実の半分以上を捨ててしまう結果に留まります。
現実から目を背けるための逃げとして捉えることも可能な話です。
何度も言いますが、この事実は、言葉として思考で理解する話ではなく、解釈する人によってその都度事実が変わるようなものではありません。

逃げの方向へととれば、その方向へと進むのは本人ですし、自分には無いのだからひたすらに追いかけていかなければならないと受け取れば、そちらの方向へ進むのもまた本人。そしてそれら全ての選択はどれも間違っていないのです。

さまざまな経験の先で、まやかしを捨て去り、この世界の本当の姿を見破った時、これらの言葉の本当の美しさが見えてくるのです。

結局、自分の目の前の事を真摯に取り組んでいく他ないのだと思います。
いずれにしろ、どの道を通ったとしても、いつかはこの絶対的な真理に辿り着くようになっています。
そして辿り着いたとしても、それに特に意味などありません。

言葉では限界がどうしても生じてしまう領域を、言葉で伝えるしかないのです。
言葉は人の数だけ解釈があり、一つに固定された事実ではないのです。

誰かの言葉や、私の言葉は呼水にしか過ぎず、結局は自分の内側にあるものを引き出すきっかけでしかないのです。

この事実を頭で理解するにとどまらず、善悪の判断を超えて、事実そのものとして在る。
そんな人が、今この瞬間にこの画面の先にいるのだと思うと、ますます増えるのだと思うと、楽しくなってきます✨
影響を与え合いながら、共に楽しんでこの世界を生きていきましょう。

読んでいただきありがとうございました。では、また〜〜〜〜〜💓


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