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読書日記 | 11/13〜11/19

11/13(月)
朝から何だか少し暗い気持ちだった。
そんななかでも、本を読みたいという気持ちは残っており、「断片的なものの社会学」を読んだ。

 それにしても、妬みや僻みの感情はないけれども、ひとはしばしば、ほんとうにしょっちゅう、「お子さんは?」という質問を口にする。別にそういうときでも、普通に「あ、ウチいないんです」と答えることはできるが。それから、ほかに、「うるさい子どもがいなくてうらやましい」とか、「夫婦仲がいいからですね」とか、そういうこともよく言われる。
(中略)
 完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰を排除することもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれない人びととの区別を、自動的につくり出してしまう。
(中略)
 私たちが、ある男性と女性が結婚したという、そのことを祝福する、ということは、こういうことだ。私たちは、好きな異性と結ばれることが幸せだと思っていて、そして目の前に、そうして結ばれた二人がいる。この二人は幸せである。だから祝福する。
断片的なものの社会学』(P110〜112、岸政彦著、朝日出版社)

この本は、社会学と書いてあるけど、エッセイのようにも感じられる。自分が苦しいときにエッセイのような、ある個人の個人的すぎる話は、どこか救いに感じられるときがある。それはもしかしたら「自分」からの逃避なのかもしれない。それでも僕らは生きていかなくてはいけないから。しばしば、苦しくて、息ができなくなりそうになるときがあるけれど、本を片手に持って、たとえそれが水中の中だったとしても、紙の本を持つことで安心して、生きていける気がする。手放さずにいたいと思う。


11/14(火)
朝は少し早起きして、会社に向かった。電車で「断片的なものの社会学」を読んだ。

 インタビューの最初の質問は、海に潜るときの、最初のひと息に似ている。シュノーケルで浮いている状態から、深く空気を吸い込んで息を止め、お辞儀する要領で頭を勢いよく水面下に潜らせて、足を後ろに高く反らせ、そのまま一気に下まで沈んでいくときの、あの感覚。私は語りに導かれて、深い海の底まで沈んでいく。息を止めて潜っても潜っても底が真っ暗で見えない。
 そして、聞き取りが終わると、ゆっくりと水面に浮かび上がっていく。水面から顔を出して、大きく息を吸い込んで気がつくと、たったひとりで夜の海に浮かんでいる。こうして、私は「この私」に還ってくる。
 そして、そのとき、とてもさびしい気分になる。
断片的なものの社会学』(P125〜126、岸政彦著、朝日出版社)

夜はオンラインで友人と話す予定があったので、仕事は定時で上がった。帰りも「断片的なものの社会学」を読んで過ごした。

時間が流れることは、苦痛であるだけでない。そうした、「ほかならぬこの『私』にだけ時間が流れること」という「構造」を、私たちは一切の感動も感情も抜きで、お互いに共有することができる。私たちはこのようにして、私たちのなかでそれぞれが孤独であること、そしてそこにそれぞれの時間が流れること、そしてその時間こそが私たちなのであるということを、静かに分かち合うことができる。
 誰も知らない時間、というものがある。だが、私たちは、その「誰にも知られない時間」というものがある、という端的な事実を、おたがいに知っている。それを共有することはできないにしても。
断片的なものの社会学』(P144、岸政彦著、朝日出版社)

しばしば思うことがある。「僕らは、『感じる』ことを共有することはできない」というそれ自体を共有したいと思ったとき、それがうまく伝わらないことがある。具体的な感覚を抽象的な言葉に翻訳する必要があり、そこには必ずしも誤読が発生する。輪郭を伝えて、祈ることしかできない。でも一方で、かたちそのものを伝えてしまうことは、相手の解釈の余地をなくしてしまうこともあるので、傲慢なのではないか、と思うのである。こうやって表明することでも、どこかの誰かを傷つけてしますかもしれない。どうやって伝えるのが良いのだろうか。


11/15(水)
9時半くらいに起きて、準備を済ませ、最近好きなセブンイレブンのたまご蒸しパンを食べながら向かった。行きの電車で「断片的なものの社会学」を読んだ。

 私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。
断片的なものの社会学』(P134、岸政彦著、朝日出版社)

お昼に近くの三省堂に行って、「坂本図書」という本を買った。少し前から気になっていた本だから購入できて嬉しい。
会社に戻ってから少しばかり読んだ。今年のはじめに坂本龍一さんが亡くなってからもう半年も経とうとしている。それからというもの、雑誌や書籍を多く見る。その本の収益は、誰のもとに入っているのだろう。営利目的よりも、彼のことをより知ってほしいという想いのもとに刊行されていることを祈る。

帰りの電車でも「断片的なものの社会学」を読んだ。
帰りの寄り道して、無印良品に寄り、生活必需品と、もこもこの敷きパットを購入した。今日の夜から眠るのがまた楽しくなる。
帰宅し、ご飯を食べて、お風呂に入りながら「断片的なものの社会学」を少し読んで、それから布団に入った。
何だか眠れず、深夜3時くらいまで起きていて、気づいたら気絶するように眠っていた。


11/16(木)
朝、更新された「超相対性理論」の新着回をききながら支度をした。最近は外の気温もかなり低くなり、冬を感じることも増えたように思う。数日前からダウンを着用している。外の移動中はいいのだけど、電車に乗っているときは、どうしても暑い。脱いだら脱いだで手が塞がって読書ができなくなる。どうにか最適解を見つけていきたい。
通勤の電車で「断片的なものの社会学」を読み終えた。

 最後に残るのは何だろう。私たちができるのは社会に祈ることだけなのだろうか。
 私たちには、「これだけは良いものである」とはっきりと言えるようなものは、何も残されていない。私たちができるのは、社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。
 私たちはそれぞれ、断片的で不充分な自己のなかに閉じ込められ、自分が感じることがほんとうに正しいかどうか確信が持てないまま、それでもやはり、他者や社会に対して働きかけていく。それが届くかどうかもわからないまま、果てしなく瓶詰めの言葉を海に流していく。
 そして、たまに、海のむこうから、成長した美しい白猫の写真や、『素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』という本が届くことがある。
 だからどうした、ということではないが、ただそれでも、そういうことがある、と言うことができる。
断片的なものの社会学』(P214、岸政彦著、朝日出版社)

お昼に本屋に向かった。朝に読んでいる本を読み終えたので、新しい本を買おうと。
ジョン・グレイの「猫に学ぶ」と、「性暴力を受けたわたしは、今日もその後を生きています。」の2冊の本を買った。

仕事を終えて、移動の時間で「坂本図書」を読んだ。

 『夢十夜』で一番好きなのは、第一夜。恋人らしき女性が病気で伏してしまい、死んでしまう。そして、白い百合の花になり、気がついたら100年経っていたというまさに夢の話。これをそのままオペラにしたいと思うほど、美しい。死んで植物になるという輪廻転生、それは生態系の話でもある。一瞬が100年だったり、100年が一瞬だったり。夢は時間的構造が直線ではなく、すべてが凝縮されているともいえる。やはりその点でも音楽にとても深く関係しているように思える。というか、そのような音楽を作りたい。原因があって結果、問いがあって答えがあるという論理的な直線を紡いでいくと、線的な時間になってしまう。我々の実社会では、常にそういう時間を前提に生きている。しかし、夢やアートの中ではそれはすべて崩れる。フロイトがある意味「発見」し、シュールレアリストたちが発掘した夢という宝庫。漱石のような論理性の極地みたいな人が、ふっと 夢のほうにいって、直線的論理が通じない世界を描く。『夢十夜』もまた惹かれる理由を挙げだすと限りがない。
坂本図書』(P16〜17、坂本図書)

夜眠る前の時間に「猫に学ぶ」を読んだ。少し読んで、はじめの部分では主に人間と猫の世界の見え方がどう違うか、ということを語っていた。読んでいるうちに連想したのは、ユクスキュルの「生物から見た世界」で登場する「環世界(すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界である)」だった。
少し読み進めてから、しっかり読むのはもう少し後でもいいと思い、本を閉じて、眠りについた。


11/17(金)
10時半くらいに会社についた。11時のミーティングまで時間が少しあったので、読書日記を書いて過ごした。朝の通勤の時間は何だか眠たくて、少しだけ「猫に学ぶ」を読んでから眠った。

仕事では、ここ最近立て込んでいた課題があったのだけど、それが今日解決してすっきりした。週末に入る前に解決してホッとした。

帰りの電車で「坂本図書」を読んだ。

2017年3月に発売されたアルバム『async』は「発売日まで誰にも聴かせたくない」という本人の意向で、内容を一切知らされなかった。事前に唯一提示されたのがこの謎の暗号(SN/M比50%)。S=サウンド、N=ノイズ、M=ミュージックとも推察されるが、いまだその意味は明かされていない。
坂本図書』(P13、坂本図書)


11/18(土)
7時30分に起床した。今日は午前中からカフェで友人と作業をしようと話していたので、準備をはじめる。
目的地のカフェまで1時間ほどある。移動中は「坂本図書」を読んだ。
途中で乗り換え後に座れてから少し眠って過ごした。最近は電車の中で、電車の環境音を聞くことにハマっている。これが妙に落ち着く。

カフェについてから、時折友人と話をしたりしながら18時くらいまで作業を進めた、主に読書日記を書いていた。カフェを出てから、お互い時間があるということだったので、いくらか本屋を回ったり、軽食を食べたりしながら20時くらいまで過ごした。ふらふらしていたのは、渋谷、表参道あたりだったけど、その友人がその辺りの生まれらしかったので、街もいくらか案内してもらった。その時間が新鮮で、でも心地よかった。

22時くらいから別の友人と飲み会があるので向かう。移動は渋谷から40分くらいだった。何となく本を読む気分でもなかったので、移動中はYoutubeを見たりした。
今日会う友人は、小学校からの友人で、会うのもかなり久しぶりだった。深夜1時くらいまで会話をしたけど、友人との会話よりも、隣の席の男性ふたりが、またその隣にいる女性ふたりをナンパしているようで、その会話が聞こえてしまい、その記憶がなんだか残っている。お互いに満更でもなさそうだった。男性側は女性側の近況のようなものをうんうんと、きいていたけど、次第に男性ひとりが眠いと言いはじめた。どうやらあれはホテルに行きたいという隠語らしかった。時間が経つにつれてそれを隠す素ぶりもないようだった。結局その人たちを見届ける前に店を後にして、歩いて友人の家に向かい、だらだら話して眠った。

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