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【映画】「関心領域 The Zone of Interest」 を鑑賞して



先行上映で見てきました。以下ネタバレ有りの感想です。

一言で言うと衝撃でした。
題材が、というよりはそれを表現する巧みな映画的技法にです。
この映画はぼんやりとした状態で見たほうがより理解できる気がします。



仕事熱心で忠実な主人公

主人公は実在した人物「ルドルフ・フェルディナント・ヘス(以下ルドルフと書きます)」
アウシュビッツ収容所の所長を長く務め、戦後は虐殺の罪で絞首刑にされている人物です。(正直、細かいことまでは知らなくて映画を見てからwikiで読みました)

劇中で描かれている彼はとにかく仕事熱心で忠実あるということ。与えられた使命を全うするために全力、仕事に対し関心で熱心。
妻のために庭の木が傷がつかないように上申するぐらい妻思いでもあり、子供を大切にしカヌーで川遊びにも連れていく子煩悩さも描かれていました。
しかし、行っていることは人類史上稀にみる大虐殺の主犯。
仕事や妻や子供への「関心」をなぜ「虐殺されていく命」と「異常さ」に向けられなかったのか。
という疑問が見ている私には浮かびました。

後半は家族と離れオランダへ飛ばされる(名目上は出世だが、本人は飛ばされたと思っていたように見えた)
そんな状態でも常に仕事に「関心」を持ちまい進し、最終的にアウシュビッツ収容所の所長に返り咲く。
そしてハンガリーからの大量のユダヤ人の輸送計画を任せれ、ウキウキ気分でいる様子が描かれる。家族に報告し妻も喜びます。
私はここの一連のシーンが本当に異常で気持ち悪くてしょうがなかった。



関心があることには注意深く、丁寧なルドルフの妻

ルドルフの妻は家のこと、生活のこと、子供のことには「関心」しています。
子供が小さな喧嘩が起きそうならすぐに注意するし、庭の草木の状態も常に注意を払っています。家にいるお手伝いがちゃんと仕事をしているか、訪れた母親が快適か、などが描かれていて、とにかく「関心」があることには些細なことでも気に掛ける描写です。
しかし、外で起こっていること(アウシュビッツ収容所での虐殺など)には全く「関心」を示さない。
私なら異常すぎる状況と思ってすぐに出ていく(引っ越したい)と訴えると思うのですが、この妻はそうではない。「関心」がないことは「どうでもいい」から。
しかし、ここで私は思ったのですが、私が「異常」と思えるのは「客観的に映画という形式で見ているから」ではないかと。
もし自分が当事者だったら同じように思うのか?日々の暮らしのことのが大事だと思うんじゃないのか?と。

細かい違和感感じさせる音の表現

違和感を直接的な表現ではなく細かい表現で映画を見ている私たちに「関心」させる技法がとにかくすごい。

音の表現が今まで見たことがない感じたことがない映画でした。
アカデミー賞「録音賞」ノミネートも納得です。

主人公(アウシュビッツ収容所の所長)の家が主に舞台となります。
BGMは場面展開時以外にはほぼありません。
日常生活が淡々と描かれているのですが、すぐに違和感に気づきます。
それは小さく聞こえる雑音。
この雑音は注意深く集中して聞いてみると
「叫び声」「銃声」「怒声」であることに気づきます。

劇中のほぼすべてで聞こえているこの音ですが、生活している主人公の家族たちはなにも違和感を感じていないし、普段通り生活しています。

私たちが日ごろ聞いている鳥や車の音のような感覚なのだろうと同じだと感じました。

普通なら、生活しているなかでこのような音が聞こえてきたら違和感しかないですし、落ち着いてもいられません。ストレスでしかないです。

しかし、描かれている人物たちの多くは「無関心」なのです。

なので何も感じないし普通のことと受け入れています。
(そのなかでも一人だけ気づいておかしくなる描写がされている人物がいますがあれは私たち観客を登場させたものだと思いました)

アウシュビッツ収容所の内部のシーンはラスト以外ありません。常に隣にある「壁の外の家」が描かれています。ここからも「関心」と「無関心」の壁を感じました。気にかけなければ壁の中のことなど知りようがないし、知りたいとも思わないし、知る必要もない、と思ってしまう状態。

ラストの表現

この映画のラストはそんな彼がオランダの勤務地の建物から去るシーンで終わります。この表現も凄かったです。

送別会的なパーティーを退屈に過ごすルドルフ。
妻には「退屈なパーティーで、どうやってこのパーティーに来た人々を毒ガスで殺すか考えていたよ」と冗談を言います。
見ている私からしたら悪趣味な冗談どこではありません。どう見ても異常者です。
しかし妻は指摘することなくただの冗談として受け流します。別に毒ガスで誰が死のうが関心がないからです。

人が誰もいなくなった建物の階段を下りていくルドルフ。
途中で立ち止まりゲロを何度も吐きます。
ここはただ酔っていただけなのか、ふと自分がしたことに強烈な嫌悪感を抱き吐いてしまったのかわかりませんが、私は後者だと思いました。それでも歩みを止めません。
出口がわからなくなったのか、立ち止まります。
目を向けると明るい方向があるのに、そちらには進みません。
どんどん下に階段を下りてきます。
最後のフロアも明るい方向(ただし最初の明るさよりもかなり小さい、鍵穴ぐらいの明るさ)があるのに、なぜか真っ暗な階段の下へ歩いていきます。

これは何度も立ち止まってやり直す(修正する)機会があったはずなのにそれでも暗い方へ行ってしまったルドルフの最後を描いていると感じました。

無関心でいることの恐ろしさ

この映画が伝えたかったこと。
私は過去にあった人類史上最悪の虐殺の一つを題材にして人間の性質について描いたのではないかと思いました。
すぐ近くでとんでもないことが起こっているのに「無関心」であれば人間は普通に生きられてしまう。
今だってそう、どこかで戦争が起ころうが、飢餓でたくさんの人が死のうが、「無関心」である人間はそんなこと気にして生きていない。そこには罪悪感も何もない。
しかし本当にそれでいいのだろうか。
過去に同じようなことがあったのにどうして人間は学ばないのだろうか。
あの時、もっとたくさんの人が「関心」をもっていたら?
救えた命があったんじゃないのか?もうそれも「無関心」なのか?
こうやって映画で客観的に描いて違和感を感じることができるのに、なぜそういう風に現実を見ることができない?という皮肉ともいえる訴えを感じました。

事実を調べてみて

鑑賞後に「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」のwikiを読んでいたらこう書いていました。

「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
(処刑前の最後のルドルフ本人のコメント)

すべてが終わり自分がやったことを客観的に見たらルドルフ本人も気づいたということなのではないでしょうか。自分がただの歯車であり、残虐な虐殺者だったと。しかし、当時の自分はそんなことを思われると思っていなかった。

目の前の仕事、家庭にしか「関心」がなかったから。ルドルフの「関心領域」に「ユダヤ人の命」はなかったのだ。

最後に

カンヌ映画祭でグランプリを取り、アカデミー賞でも受賞が間違いないといわれている本作。
ぜひ、見てほしいです。
正直、見ていい気分にはなりませんし、面白いという表現も使えない映画です。

それでも「関心」をもって見てほしい。

自分は見た後に同じように「無関心」であることで誰かを傷つけたりしているんじゃないか、そんなことを考えさせられる映画でした。

映画鑑賞後一時間後にこの文を書きました。書き殴りです。すいません。
映画を見た後にこれだけ自分の考えを吐き出したくなるのは初めてでした。



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