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一流企業の商社マンから無職に。会いたい人に会いまくって、海外での起業を決意

僕が社長になった理由-松原祥太郎さん-
フィリピンのマニラにある英語学校で起業した松原さん。“主体的”という言葉を何度も繰り返していました。「自分の本当にやりたい方向に進む(=想いを通す)ため、親や教師など周囲の人たちを納得させるべく、中学時代から常に文武両道を意識していました」と言います。バスケットボールへの情熱を貫くために進んだ大学で、挫折を味わいながらも、再び自ら新しい道を見つけ、どんどん挑戦していく、その強さの秘密を探ります。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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松原 祥太郎(まつばら しょうたろう)さん

ステップフォワード株式会社
◆略歴

・1987年鳥取県で誕生
・筑波大学 第二学群人間学類(現・教育学類)卒業
・小学生から大学生までバスケ部に所属
・2011年、伊藤忠商事株式会社入社
入社後は一貫して食品流通関連の業務に従事。
営業、商品開発・マーケティング、輸入、管理業務等を担当。また、新規取引先の開拓や、地方企業との取組みにも注力
・2017年に同社を退職。
・2018年4月、以前より関心が高かった教育やスポーツ等の分野にて挑戦すべく
ステップフォワード株式会社を創業。事業を通じて個人や組織に能力・マインドセット開発や挑戦の場を提供していく

◆好きな言葉(座右の銘)
主体的に生きる

バスケットボールと共に歩んだ学生時代
選手になる夢をあきらめ次に選んだものは

 小学校2年生の時にバスケットボールを始めたのですが、一時期は小学生ながらバスケ他に水泳とサッカーも掛け持ちするハードな生活を送っていました(笑)。中学では県の選抜選手に選ばれ、「バスケの選手になりたい」そんな夢をずっと持ち続けていました。
 ただし、文武両道を貫くために地元の進学校に進学。「自分がこの学校を強くする」と息巻いて入学した高校では、指導者すらまともにおらず、選手権監督をするような状況でした。そのような状況なので、高校のバスケットは不完全燃焼に終わったため、大学で環境を整えて、もう一度バスケットをしっかりやりたいと思っていました。そこで、国立ではバスケが圧倒的に強い筑波大学へ進学しました。

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▲大学のバスケットボール部時代の写真。左側のガッツポーズが松原さん。

 想像していたとおり筑波大学には強豪校から集まった選手も多く、そこで初めて自分のレベルを突き付けられることになります。そんな現実を目の当たりにしたことは挫折にも近い経験でした。当時は半年ほど大学を休学して、自分を見つめ直し、バスケ以外の道について考える毎日でした。でもやはり自分が大好きで打ち込んできたスポーツであり、「バスケがない生活は考えられない」という想いから、休学があけてからまたバスケ部に戻ることになりました。
 一度時間をおいて自分と向き合ったことで、バスケについて、今までとは見方を変えることができるようになりました。バスケが好きなことは間違いないけど、プレーヤーとして大成する以外にも、自分らしい形で、バスケを通じて得た能力や経験を社会に還元していける生き方はあると考えられるようになったのです。

 プレーヤーとしての道をあきらめてからは、初めは教師になることを考えていました。僕には小中高のそれぞれの時代に、恩師と呼べる先生方との出会いがあり、こういう先生になりたいというロールモデルがあったんです。ただ、実際に教師になって自分が教壇に立つシーンを想像するにつけ、どうしてもいいイメージが湧かなかった。同時に自分の恩師は教師になる前に企業で働いた経験など、やはり普通の先生とは違う経験や魅力を持っていたことを思い出しました。

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▲松原さんの運営している学校があるマニラのボニファシオグローバルシティ(BGC)。東京と同じかそれ以上に発展した、治安のいい美しい街です。

 自分がこのまま卒業後にすぐに教師になっても、果たして生徒たちにとって本当に意味のある教育をできるのかという点で大きな不安がありました。さらに、学問として教育を学ぶ中でも、教育に携わる方法は教師という選択肢以外もあるということがわかったため、まずは社会に出て、一般の企業へ就職することに決めました。

リーマンショック後の就職氷河期に商社から内定をもらった松原さん。しかし商社から内定をもらったものの、その時点では海外経験はなかったため、その直後からオーストラリアへ留学に行ったとのこと。そこでの出会いや経験は、のちの起業の際に彼が踏み出すキッカケのひとつとなったと言います。どんな出会いがあったのでしょう?

花形の商社に内定をもらい、
英語の勉強のためにオーストラリア留学へ

 商社を選んだのは、海外を含め幅広い事業を生み出す機会に携われて、組織人としての働き方を経験しながら個人としての成長が望める場である環境だと思ったからです。あとは単純に山崎豊子さんの「不毛地帯」に影響されたりもしましたね(笑)
 当時はリーマンショックの直後。大企業だからといって安泰なんかはないし、社会人として自分で食っていけるだけの「個の力」をつける必要があると強く感じていました。その中で、運良く第一志望だった商社から内定を頂くことができました。嬉しかったですね。

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 当時、僕は内定を得た時には既に単位は取り終え、論文も書き終えていたので、十分に時間に余裕が持てる状況でした。そこで、半年間オーストラリアへ行くことにしました。何せ商社に就職するのに、海外経験はほぼなかったですから(笑)。実際に海外で生活し、英語の勉強もする必要があると強く感じていました。

 オーストラリアではシェアハウスに滞在していたので、様々な国から集まった人たちと同居生活を経験しました。英語の猛勉強もしたし、彼らのおかげで臆せずに英語が話せるようになりました。幸運にも様々なバックグラウンドを持った気の合うメンバーに恵まれたため、時には共に学び、時には議論し、交流することが非常に刺激的な日々でした。最高の友人たちに囲まれ、充実した時間でした。同時に多様性とは何たるかを理解し、商社で海外での仕事にチャレンジしたいという想いはこの期間に一層強くなりました

恵まれた環境で働く中、突然の退社宣言!

 帰国し、入社した商社での仕事は厳しくも学びが多いものでした。ビジネスマンとしての基礎を叩き込んでいただき、前職には素直に感謝しています。ただし、配属の部署では主に国内ビジネスを担当。駐在や研修に必要な英語の要件は入社時にクリアしていたものの、入社当初から希望していた海外研修や駐在の話は何年経ってもなかなかチャンスが回ってこない状況が続きました。

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▲さまざまな国へ行き、友だちを増やす松原さん。

 逆に語学が得意でもない同期や後輩が海外駐在していく姿をみて、羨ましい反面、徐々に疑問も感じるようになりました。大企業の中ではどんなに意見を主張しても、希望どおりのことがやれる保証はないということを身をもって痛感し、一度しかない自分の人生を会社任せ(≒他人任せ)にしていることへの恐怖も覚えるようになりました。

 僕は常々、自分が心から価値を感じて取り組める事業にコミットしたいという想いが強く、会社の中でそのような環境に身を置けるのであればサラリーマンを続けることも全く悪い生き方ではないし、逆にそうでないならば、20代の間に目途をつけ、元々興味があった教育やスポーツの世界でチャレンジしてみたいと思っていました。

 とはいえ、会社を辞めることを考えるとやはり、多少の恐怖がありました。サラリーマンの中でも恵まれた環境にいることは重々認識していたので。いくら悩んでも、明確な答えは出ませんでしたが、徐々に会社の外に出てチャレンジをしたい想いが強くなっていきました。
 そんな折に上司から、翌年、台湾への赴任が内定していると聞きます。ようやく希望していた海外での仕事がやってきたものの、その反面、既に会社を出る決意を固めつつあったため「どちらの選択に後悔がないか」という観点からその話を固辞しました。

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▲商社時代、ドイツへの海外出張のとき。

 そして、自分を振り切るつもりで、興味のある分野に挑戦するということ以外は具体的には何も決めないまま、思い切って退職しました。みんなアホだと思ったでしょうね。自分でも思っていました(笑)。でも、会社を出ても最低限、生きていけるだけの自信はありました。「最悪、世の中に何百万社とある中で、1社にも雇ってもらえないなんてことがあるだろうか。いや、きっと1つはあるだろう。万が一1社もなくても、バイトでも食い扶持くらいはちゃんと稼いでみせる」―。極論ですが、そう思うと気が楽になりました。

商社マンから一転無職に。
会いたい人に会い、行きたい場所へ行く

 退職してからは、自分が気になっていたスポーツ関係者や教育関係の人たちに片っ端から連絡をとって会いにいきました。ウェブサイトのお問合せフォームや本や雑誌などの情報を元に直接メールを送ってお願いするような方法です。おそらく、怪しいやつだと思われたでしょうが、逆におもしろがられて会ってもらえることもありました。その後、フィリピンへ行った期間も含めると、少なくとも100人くらいの人と会って話をしたんじゃないかと思います。

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▲ボニファシオグローバルシティ(BGC)にあるモールは夜になるとライトアップされて、本当に美しいんです。

  最初はセブ島の語学学校に2か月ほど滞在しました。そこで多くの日本のビジネスパーソンが英語を学びにきていることを知りました。商社時代は周りの人たちがある程度英語が話せるのが普通の環境だったので、まだまだ英語の学習需要がこんなに高いことは新たな発見でした。

 そして、セブの滞在の後はビジネスやスポーツ等の環境を調査するため、首都であるマニラに行きました。そこでBGC(ボニファシオグローバルシティ)という街を訪れ、衝撃を受けました。セブでは、それほど強く経済成長を実感することはなかったのですが、ここは明らかに日本と同レベルの街があり、ものすごい勢いで経済が成長していました。そんな環境に身をおきつつ、その後もマニラ滞在中にも様々な人と出会い、ビジネス環境を調べて周りました。

松原さんがフィリピンに行こうと思ったのには3つの理由があるそう。1つに、「アジアの時代」と呼ばれるこの時代で、特に経済成長している国の勢いを肌で感じたかったから。2つ目は、英語が公用語であるから。3つ目は、大好きなバスケットボールが大人気のバスケット大国だから。商社マン時代からずっと興味を持っていたそうです。

無職から友人を巻き込み起業へ
日本とマニラで会社を設立。

 約4か月弱のフィリピン滞在を終え、日本に戻ってからは再度、転職活動をスタートしました。有難いことに複数のオファーも頂いたのですが、自分のやりたいことに完全に当てはまるポジションはなく、必ず何らかの点では妥協が必要でした。そんな中、もし起業をしたならば、自分のやりたいことを事業として表現できるのではないか、という考えが頭をよぎります。そこからその考えが頭から離れなくなり、一気に起業に向けて動き始めました。

 起業にあたっては「人財支援」というコンセプトで事業を創っていくことにしました。私の関心が強い教育やスポーツの領域、どれにも共通する根幹の考え方だったからです。まずは、日本の教育の中でも最も変えなければならないと思っている英語学習に取り組むことにしました。フィリピン留学ではセブがメジャーですが、ビジネスマンのサポートをメインに考え、治安・環境面や、学ぶ刺激を考えた結果、マニラ(BGC)で語学学校を設立することにしました。

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▲共同創業者の嶋村さんと。松原さんのあきらめない熱烈アプローチの末、決意してくれたのだそう。

 ただ、僕には英語を学んだ経験はあっても具体的なコンテンツを作ることができません。そこで、大学時代から同級生で教育業界最大手に勤めていた友人の嶋村を巻き込むことに決めました。毎週末打ち合わせをし、この事業を一緒にやりたいということ、何故いま彼が必要なのか、という話を何度も何度も話しました(笑)。
 いきなり海外でも起業することになるし、リスキーに聞こえたと思いますが、具体的な事業計画を策定し、会社を登記し、資金を集めて準備を進めていく中、最終的には教育に対する熱い想いから、創業メンバーとして加わることを前向きに決断してくれました。

フィリピンで会社と学校の設立
日本と海外の違いを痛感することばかり

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▲洗練されたオフィスで現地のオープニングスタッフと@マニラBGC

 その後はフィリピンでの学校設立の準備に入っていくのですが、そのトラブル等を語り始めるとキリがありません(笑)。半年程度かかって手続きを終え、ようやく学校が設立できました。学校設立から1年が経った今、まだ日本からの集客が一番の課題ですが、少しずつお客さまが増え、顧客の満足度という観点からはフィリピンの数多くの語学学校と比較してもトップレベルの評価を頂いていると思います。
 ありがたいことに口コミでのご紹介や多くのリピーターにも来ていただけたりするようになりました。また、企業研修などのコンテンツもスタートさせた他、スポーツを絡めたコンテンツや人材系の事業も粛々と準備中です。

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▲一周年記念のパーティでの様子。

 正直、起業してから2年が経った今も不安で悩みも絶えない日々です。それでも自分が決めて価値があると確信している事業にコミットできている充実感は本当に大きいものがありますし、あの時、大企業から出て、一歩踏み出したことが今のこの人生に繋がっているのだと思うと、決断には全く後悔していません。そのような自分自身の体験があるため、僕は、想いを持って主体的に行動を起こせる人は自分の人生の充実感を高められると確信しています。私たちが創業時に会社として掲げたビジョンは「一歩踏み出す、その先へ」です。まだ始まったばかりですが、事業を通じて、そういう人が1人でも多くなるように貢献していきたいと思っています。

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▲コロナの状況下、フィリピンもロックダウンされ、学校運営は厳しい状況ですが、すぐにオンライン授業をスタートさせたそうです。
日本にいながら英語留学!
StepForwardオンラインレッスン講座

松原さんと初めてお会いしたのはマニラでのこと。日本人で起業した方がいると聞いて訪問したんです。教育への熱い想いや日本人としての危機感などをたくさん語ってくれて、激しく感動したことを覚えています。「主体的に動ける日本人を増やしたい」活躍する場は違っても、私も同じ想いなので共にがんばっていきましょう!

下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!