僕がロボットから人間、そして【イグナイター】になるまで -渡邉 知さん-
「すべての人がビジョンを介して有機的に繋がり合う社会の実現」をビジョンとし、つながりが生まれ深まる「場づくり」を行うファイアープレイスを経営する渡邉さん。自身を“イグナイター(点火役)”と呼び、パッションがあってビジョナリーな彼の言葉は多くの人を感動させます。若いころは、生活も仕事も全てが他人との勝負ごと。「誰かに勝つ」ことで自分の自尊心を保ち、居場所を作ってきたといいます。起業し、誰かと比較することのなく、自分自身で意思決定する日々の中で、自分がどう変わったのか教えてもらいました。
※写真は渡邉さんが訪れ、フレームを通して見たすばらしい日本の姿です。
渡邉 知(わたなべ さとる)
♦プロフィール
株式会社ファイアープレイス 代表取締役社長CEO
東京都観光まちづくりアドバイザー
(株)さとゆめ社外プロデューサー
一般社団法人SIDELINE理事
◆略歴
仙台市出身
●1999年(株)電通国際情報サービス(ISID)入社
●2008年より(株)リクルート入社
●2011年よりじゃらんリサーチセンター エリアプロデューサー/研究員
●2014年よりISIDオープンイノベーション研究所/ビジネスプロデューサー
●2015年(株)ファイアープレイス設立
将来の夢はない、というより、
そもそも考えたことがなかった
幼稚園の卒業文集みたいなものに、「ロボットになりたい」って書いてありました。ぼんやり覚えているのは、強くてカッコいいものにあこがれていた自分。「どうしたらひじからミサイルが出るようになるのか?」真剣に考えていたような子どもでした。
高校生になっても大学生はまだ先の未来で、大学生になっても社会人はどこか遠い世界だと感じていました。「将来何になるのか?」っていうこと自体、あまり考えてこなかったのだと思います。
僕の母親は教育熱心で、小さいころからスイミングやピアノを習っていました。習い事でも、勉強でも、遊びでも、一番が取れなかったり、周りが期待しているレベルに達することができないと、怒りまくって泣いて帰る。そんな子どもでした。周りの子に負けたくない、その思いがすごく強かったんです。
もちろん、一番をとったことも、ほめられたこともたくさんあります。でも、中学、高校と進んでいくと、上には上がいるってことがわかってきました。その頃から、僕はトップを目指すことが難しい場所から距離を置くようになりました。部活でいえば、高校では水球、大学ではアメフト。サッカーや野球のようなメジャー競技ではなく、マイナーな世界の方が競技人口が少なくて、勝てる確率が高くなる。そうやって、自分の自尊心を満たしてきたんです。
渡邉さんのFacebookは、日本中のステキを集めた写真集のようです。さまざまなエリアに赴き、そこの魅力をもっと伝えていくお手伝いをしています。
仙台から上京した大学時代は、部活とバイトとテレビゲームの日々でした。そんな中で、就職先を考え始めなくちゃいけなくなり、僕は自尊心を満たすため、仕事ではなく会社で選ぶことにしました。偏差値で高校や大学を選ぶのと同じような感じです。”給料が高くて、入社難易度が高そうな”会社を受け、特にやりたいこともないまま就活が終わりました。
新卒入社でいきなりプチ暗黒時代。
採用担当に異動したことで道が開けた
電通グループで、”ITテクノロジーを活かしたコンサルティングサービス”を提供する会社に就職しました。知名度も高かったし給料も高かった。同期入社の仲間も、皆優秀でした。最初の会社としては、我ながら良い選択だったと思います。
ところが入社して研修やOJTが始まってみると、仕事がまったくおもしろくなかったんです。運動部では練習方法が決まっていたり、やるべきことが見えていましたが、最初に配属された営業部では、会議で話される専門用語がまったく理解できないし、どんなプロセスで仕事が進むのかもわからない。いつまでたっても仕事の輪郭が見えず、若干ひねくれた性格が悪いほうに出ていたと思います。
先輩たちからも「おまえ、このままじゃヤバイぞ」と言われてましたし、何か聞かれても「全然おもしろくないっす」と口を尖らせて答えてしまう。僕を採用した担当の方からも「死んだ目をしている」と心配されていたほどでした。
さすがにこんな状況を見かねたのか、入社後1年が過ぎたころ、人事部採用グループに異動になりました。最初の仕事は、新卒採用。会社説明や面接のアテンドの担当です。相手は学生。年はたいして変わらなくても、社会人としては先輩である立場で話をすることができる。これは、僕にとって魂の救済に近いものでした。優秀な先輩や同期の前では自分の居場所がなかった。やっと、勝てる場所を見つけた、そんな感覚です。
すると、彼らの前でもっとカッコいい自分でいられるために、上手なプレゼン方法を考えたり、彼らに説明するために事業部のことを知ろうとするようになりました。あんなに嫌いだった現場に赴き、どうしたら大学生にわかりやすく伝えることができるか、そんなふうに考えるようになったのです。自分のためです。誰かに勝つ自分であるために、自分を守るために、入社後初めて、自発的に学ぶようになりました。
渡邉さんは、自分の過去をいいことも悪かったことも、客観的に語ってくれます。当時を振り返り、「今だからわかることがたくさんある」と言っていました。自分を俯瞰して見ることで、自分のクセや価値観、自分がやってきたことを知ることができる。そういったことをたくさんやってきたからこそ、他人に対しても共感力が高く、それを言語化する力も優れているんだということがとてもわかります。
採用担当として実力が開花!
7年間居心地のいい場所で働けていた
採用担当として7年働きました。僕がエモーショナルな言葉で学生たちの心をゆさぶり続けた結果、当時の2ちゃんねるにあった『就職偏差値』って掲示板で、うちの会社の評価がえらく高くなっていたんです。でも、そこに“渡邉補正”という注意書きがついていて、“採用担当の渡邉が会社の評価を高めているだけで、本来の会社自体の偏差値とは違う”と言われるほどでした。社内には渡邉チルドレンなんて言われるような、「渡邉さんの言葉に共感して入社しました!」という社員が増えていました。
中途採用もリーダーとして担当することになり、いつしか人事部も7年目。学生の前でカッコつける、転職希望者を熱い言葉で口説く。そうした仕事は自分に合っていて、いつしか社内でほめられることも多くなりました。けれども、7年も同じ仕事を担当していると飽きがくるものです。当時、調子に乗っていた私は、「仕事の自信はついた、今の自分なら外の世界でも戦える、一番になれる」と思って、転職を考えるようになっていました。
そんなときに、リクルートとご縁があり、32歳で中途入社。そこで配属された部署が、リクルートの中でもトップ営業マンたちが集うチームだったんです。
暗黒時代の幕開けから
TOPGUN AWARDに上りつめる!
リクルート入社してからの1年半くらいは、僕の暗黒時代です。今考えると自分のプライドや傲慢さが強く出て、新入社員の時と同じく、現実から逃げていた日々でした。自分より下だと思っていた同僚たちが、どんどん結果を出しているのに、自分は目標達成できないまま。上司とのミーティングも嘘をついてサボったりしていました。メンタル的にもかなりヤバイところまで行っていたと思います。
気持ちが切り替わったキッカケは、とある同僚からの電話でした。とっくに目標達成していた彼は、視点が自分の結果だけでなく、チームとして、会社全体の数値を見ていたんです。私を心配して、「達成するために何ができるか一緒に考えましょう」と言ってくれました。自分のプライドにばかりこだわっていた自分とは、成績だけでなく、考え方もスタンスも雲泥の差です。そんな高い視座を持つ彼に憧れ、どうしたら彼のようになれるのだろう、と真剣に考えました。
いきなり結果が出るようにはなりませんでしたが、そこから少しずつ自分が変わっていけたんだと思います。しばらくすると部署の異動があり、そこでいきなりトップの成績を出すことができました。その後、リクルートグループ全体での全社表彰(TOPGUN AWARD)も受賞することができました。
渡邉さんのお話には、“自分の居場所”という言葉が何回か出てきます。親に与えられた家庭という居場所から独り立ちして大人になると、自分の居場所は自分で作らないといけなくなります。そのときに、多くの人は仕事に自分の居場所を求めます。そこが不安定だと、自分の存在意義が心もとなくて弱くなる。会社の中で保証されていた居場所から、自分の足で立つ起業を選んだ渡邉さんが、見つけたものはなんだったのでしょう。
会社の外の人たちと接し、東日本大震災で
自分にとって大事にしたいものが変わった
2011年の震災を機に、私は旅行を取り扱うリクルートの他部署、「じゃらん」に異動になり、地方創生に関わるプロデューサーのような仕事をするようになりました。ほとんど会社にいる時間がなくて、社外のさまざまな業種の方たちと接する仕事でした。この、今まで会ったこともない、一緒に仕事をしたことのないような会社外の人たちとチームを組み、力を合わせて仕事をしていく経験が、私のその後のキャリアを大きく変えたと思います。
会社にいると、同僚との出世競争や目標達成など、相変わらず勝ち負けで考えることが多かった。けれども、社外の人たちは自分と違う世界に生きているため、勝負する必要がないから付き合うことが楽でした。もしかしたら、この頃から、「仕事って、勝ち負けじゃないかもしれない」と感じるようになったのかもしれません。
加えて、心の底から楽しそうに生きている人たちにも数多く出会いました。農家や漁師のおじさん。自治体職員。小商いのパン屋さん。彼ら、彼女らとの違いは一体何だろう?と考え始めるようにもなりました。そこで出た自分なりの結論は、「彼、彼女らは、自分がやりたい仕事をやっている」。「自分は、やらなければいけない仕事をやっている」。日々、やらなきゃいけない仕事と向き合っていた自分は、これといってやりたいことがなかった。そこに少しずつ違和感を持つようになりました。
そして、いつしか起業することを考えるようになりました。
仕事で身に着けた共感力と言語化で、
人に火をともす【イグナイター】となる
ファイアープレイスが手掛ける川崎にあるロックヒルズガーデン。オープンスペースでバーベキューやキャンプのような楽しみ方ができるだけでなく、企業研修なども可能。人をつなげる場としてプロデュース。
自分のやりたいことを見つけよう。見つけるために独立しよう。独立するには会社が必要だから会社登記しよう。そんな流れで会社を設立しました。とはいえ、やりたいことが明確にあったわけではないので、明確なビジョンがあったわけでもありません。今の私の仕事は、全部後付けです笑。
最初の頃は事業を創ることができませんでした。お金もどんどんなくなっていって、どうにもならなくなって、恥も外聞もなく「私は事業が創れません、助けてください」とSNSで発信しました。そうしたら、周囲が本当に助けてくれたんです。
「どうしてそんなにオープンなんですか?」と聞かれることがあるんですが、事業って、想像していたよりずっと大変だったから、だと思います。もし、会社が順風満帆だったら、今でも誰かのマウントを取ったり、同じような立場の経営者の人とどっちが稼いでいるか、事業規模が大きいか、張り合っていたりしたのかもしれません。そんな余裕がなかったから、たくさんの友人やパートナーに助けてもらいました。助けられていることに、そのお陰で生きていけることに、感謝するしかない。そうこうしているうちに、いつしか、誰かと勝負することを考えなくなっていました笑。
事業のひとつ「トラベリングホテル」。ホテル仕様のバスで旅ができます。
今は、ロボットからようやく人間になれた気がしています。昔の自分を知ってる人からは、「変わった」「攻撃的じゃなくなった」と言われますから。
僕は自分に【イグナイター】という肩書をつけています。まちやチームや個人のビジョン、「進むべき未来の輪郭」の言語化と可視化に寄り添い、「火を点ける点火役」という意味です。輪郭がはっきりして実現したい未来をシャープにしていく、そのお手伝いが、今のファイアープレイスの事業になっています。
ビジョン、即ち「やりたいこと、実現したい未来」が明確になると、周囲からサポートされやすくなります。共働しやすくなります。仲間を集めやすくなります。即ち、「繋がる力」が双方向で高まっていくわけです。「すべての人がビジョンを介して有機的に繋がり合う社会の実現」が私のビジョン。これからも、火付け役として、さまざまな未来の輪郭を描くお手伝いをし、ビジョンを介してつながりが拡がっていく社会を実現する一助を担っていきたいです。
↑日本橋CONNECTは屋内BBQというスタイルで、接続するスペースにはスナック&バーがあるという空間。人をつなぐための場づくりはまだまだ続く。
渡邉さんが起業という大きなライフシフトをするキッカケは東日本大震災でもあったと言います。そして、2020年に私たちを襲ったコロナでも、つながりを育む渡邉さんには大きな試練になっています。私たちの日常がwithコロナで、どのように変化していくのかはまだわかりません。それでも、人と人がつながり合う重要性は一層求められてくることは間違いないと確信します。だからこそ、渡邉さんのように、人をつなぐ場やそういったことができる人は、カタチはどうあれ時代から求められ、応援されるのでしょう。
渡邉さんのnoteはコチラ
下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!