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「素読」にまつわるエトセトラ【其の一】

「蟹食べ行こう〜♪」

と言いたいわけではありません(ギリギリ世代には当たるかと。笑)。


「素読(そどく)」に関しては、

過去の記事の中でも触れさせていただきました。


自称「圀語」講師を名乗る上では、

日本古来の伝統的な教育法についても、深掘りせざるを得ません!^ ^



ということで、


小さな個人的なエピソードの振り返りから、

研究者っぽい深い考察まで、

シリーズ形式で纏めてみよう!


と思い立って書き始めている次第です。

「素読」との出会い


大学に入学しておよそ半年間くらいは、

「国連職員に、俺はなる!」

という強い意気込みで、

膨大な英語論文を地下室に籠って読み漁る日々を送っていました。^^;



ですが、夏休みの折り返しの時期になって急にふと、

「このままでいいのか……」

と思い始めるようになり、

「国際」志向から「国内」志向へ大転換を遂げました。

(「陰極まりて陽に転ず」という、アレですね。)


具体的には、

日本の歴史に関する勉強会を主催してみたり、

松下村塾(松下政経塾ではありません)をテーマにした講座に参加したり、

特攻隊を筆頭に各地の戦没者慰霊祭に参加してみたり、


といった極めて濃厚な展開に至りました。

(何をやるにもまず直感を頼りにあちこち飛び込む射手座かな。笑)


またこの辺も機会があれば深掘りを、と思います。m(_ _)m

「大正生まれ」からの”バトンパス”


僕の祖父は父方母方ともに「大正生まれ」にあたります。


青年期に戦争を体験して、

戦後の焼け野原からの経済成長の荒波を乗り越えて、

時代の転換期を生身で目撃し体験してきた世代ですね。


「戦前」と言われる時代の「最後の証人」とも言えそうです。



話を「素読」に戻しますが、

僕が『論語』『大学』などの東洋古典の学びを始めたことで、

幸運にも巡り会えた先生方も「大正生まれ」でした。


その中のお一人が伊與田覺(いよださとる)先生です。

ご縁があって一度だけご自宅にお邪魔させてもらったり、

「洗心講座」という講座に参加させていただいたりしました。


過去にいただいた資料を掘り返し漁っていたところ、

先生が書かれた文章を見つけたので、引用させていただきます。m(_ _)m


素読の心得
素読をする前に素読とは、どういうものかについてお話ししておきたいと思います。
素読とは、良い文章、為になる文章を恰も川の流れの様な素直な気持ちで、朗々と読むことであります。
一体学ぶと言うことは、只、端に講義を聞くとか、書物を読んでそれを大脳の表皮細胞に記憶すると言うことだけではありません。
全身の全細胞の全変化によって人間の調子を変へその人柄をも変化させてゆくところまで行かねばなりません。
それを私共では、我づくりと申しますが、そのためには何らかの行を積まねばなりません。それが、古来より行われているところの素読なのです。
神社における詔詞奏や仏教の読経などその一つと見てよいでしょう。
それは、只、散文的に読み下すだけのものではなく、生命の律動にのせてリズミカルに読むのであります。
それが文の内容と共に、おのづから身心の調子に影響を与えて、我づくりに役立ってくるものでありまして、こういうところから、我づくりの行として素読を行うものであります。
ですから、素読をもって、解釈や講義よりも程度の低いものなどとしてはなりません。

「洗心講座」配布プリントより

誠にありがたいお言葉です。

「我(われ)づくり」とあるのは、いわゆる精神的自立のことでしょう。


東洋古典では、

「小人(しょうじん)」が「大人(たいじん)」になるための教え

「大学(だいがく)」

と本来は呼ばれていたわけで、


高校卒業後の「大学」という言葉の由来もここにあったと知りました。


「道徳教育」としての「素読」


さて、今年の年明け早々、

もちろんテレビを観ることなんて殆どしない僕なのですが、


『チャンネル桜』のこの対談は心躍るものが幾つもありました♪(^^)


この対談の中で小堀桂一郎先生は、

日本語がなくなれば日本は日本ではなくなる

と端的に鋭くご指摘されました。



水島社長は、

虫の声の一つ一つを雑音じゃなくニュアンスとして受け取る

難しい古典を音で何度でも読むと、変な話だけど(意味が)わかってくる

と続けられました。


重ねて小堀先生は、

正しい日本語を教えるだけで道徳教育は済んでいる

現代文はいらない。古典を学ぶだけでいい

とまたもや痛快にご指摘されました!!


「古典はオワコンw w」

と有名な誰かが言うに憚らない時代となってしまったようですが、^^;


現代的ないわゆる”効率主義”的な視点からは測れない意味があるどころか、

実はこの社会を根底的に成り立たせている「道徳」に対して、

最も効率的に教育効果を発揮していたのが「素読」だったのかも。。。


そんな可能性も伺えるわけです。


考察はまだまだ続く……

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