線でマンガを読むタイトル_-_コピー__2_

『ソナチネ』かけがえのない夏の日

北野武監督といえば、夏を舞台にした傑作が何本も思い浮かぶ。『あの夏、いちばん静かな海。』『菊次郎の夏』などはまさにそうだし、『アウトレイジ』でも夏のシーンが多い。この作家には、夏という季節が似合っている。

私は、夏の、ギラギラした光と、日が暮れて訪れる夜の闇のギャップが、北野映画に存在するギャップとよく似ていると思う。過剰なまでに暴力的な描写と、反面、どこまでも静かな、叙情性をたたえたショット。北野映画には、このふたつの要素がいつも同居している。

北野の初期作品『ソナチネ』もそうだ。北野自身が主役の弱小暴力団の組長、村山を演じている。彼が沖縄で起こったヤクザの派閥抗争に介入するところから、物語がはじまる。といっても、東京で暴力団をいとなんでいる村山には、沖縄の抗争に参加する理由はない。自分の組の所属する、広域暴力団の長に命令されて、しぶしぶ沖縄までやってきたのだ。

放蕩無頼で粗暴な村山は、暴力団の仲間内で、やっかいもの扱いされている。面倒だから、抗争に巻き込まれて死んでしまえばいい。そういう意図があって、沖縄に送り込まれたのだった。出発する前には、「たいした騒ぎじゃないから、お前が顔をだせばすぐに収まる」と言い含められていたものの、実際に現地に到着してみると、とうぜんそんなはずもない。抗争は激化していて、村山はすぐに手下の大半を殺されてしまう。

戦力を失った村山は、沖縄でなにもすることがなくなってしまう。抗争を収めてこいと言われているので、東京に戻ることもできず、海辺の隠れ家で、生き残った数人の部下と漫然と日々を送るのみである。そこに、行き場をなくした女性、幸が加わる。ヤクザ映画なのではあるが、この、隠れ家での生活が非常に濃密に描かれる。

村山たちは、とにかくやることがないので、ぶらぶらしていたのだが、ある日、皆で遊びはじめる。その遊びが、非常に牧歌的なのだ。浜辺で相撲や釣り、フリスビーや花火に興じ、風呂がないのでスコールが起きれば皆で裸になって、頭を洗う。いい年した、しかも暴力団に入っているような人たちの行動としては、かなり異様だ。まるで皆がいきなり小学生に戻ってしまったかのように、無心で遊ぶ。殺伐とした抗争のストーリーから一転、何をみせられているのか、わからなくなってしまうのだが、じわじわくる。

村山たちが無心に遊ぶ姿が、とても静かに、美しく描写されていて、自分の少年時代の、夏の一日を思い出してなつかしくなる、涙がでそうなくらい。いや、じつは私はこのくだりでいつも泣いてしまう。しかし、この無邪気に遊ぶ少年少女は、いつ何時殺されてもおかしくない境遇にある。だからこそ彼らは一念に遊ぶのかもしれない。もう自分たちに残された時間がそんなにないことに、気づいている。彼らの周りにはいつも死の気配が漂っている。だから彼らの遊ぶ姿がより清らかに映る。ガラの悪いおじさんたちが遊んでいるシーンを、こんなにきれいに撮れるものなのか。殺戮と遊戯。大人と子ども。このギャップが『ソナチネ』のとてもおもしろいところだ。

遊びのときはいずれ終わる。浜辺で遊ぶ子どもたちは、本当は子どもたちではない。大人で、ヤクザだ。ある日、村山は拳銃を取り出し、ロシアンルーレットをやろう、と提案する。もちろん本物の拳銃だ。これまで牧歌的に遊んでいた部下たちは動揺する。そんな危ないことはやめましょう、と反対するが、村山はやる、といって聞かない。結局、死者は出ないが、村山は、ゲームのうちに頭を撃ち抜かれ、脳漿を飛散させながらむごたらしく死んでゆく自分のイメージを見る。浜辺の隠れ家から、現実に戻る時間が迫っているのだ。

ピータパンを思う。子どものまま、ずっと遊んでいられたら。彼らの浜辺は、北野版ネバーランドなのかもしれない。そののち、隠れ家を突き止められた村山たちは、ひとりずつ殺されてゆくこととなる。最後に残された村山は、たったひとりで抗争の中に戻ってゆく。血なまぐさい現実のなかに、うたかたの夢のようにあらわれ、消えてゆく美しい夏の日々。そのかけがえのなさに心をうたれる映画。


この記事が参加している募集

#コンテンツ会議

30,844件

読んで下さりありがとうございます!こんなカオスなブログにお立ち寄り下さったこと感謝してます。SNSにて記事をシェアして頂ければ大変うれしいです!twitterは https://twitter.com/yu_iwashi_z