レディバード

『レディ・バード』 はばたくとき

クリスティンは自分の名前が気に入っていない。だから彼女は本名ではなく、”レディ・バード”と名乗る。彼女は生まれ育った窮屈な地方都市と、貧しい家庭を憎んでいて、”なにか”になってそこを出ていきたいと切望している。しかし、なにをやっても中途半端だ。

わたしが映画学校に通っていた頃、恩師がこう言っていた。

「ストーリーは手段にすぎない」

目新しいストーリーを考えることは、誰でもやる。でも、斬新なストーリーが”物語”になるかは、別の話。そんなことを話しながら、先生が参考作品としてみせてくれたのが、クロード・ルルーシュの『男と女』だった。

「ルルーシュのフィルムは、正直いって、馬鹿。『男と女が恋におちる』。これだけ。でも、ルルーシュが撮れば、それは紛れもない”物語”になる」

ことあるごとに、あの日の先生の言葉が思い出されてならない。目新しいストーリーとか、古典的なシンプルなストーリーとかいう手段以前に”物語”が存在していて、それがどのようなものかを、言葉で明晰に語りえた人はいない。誰に話を聞いても、どんな本を読んでも、”物語”の中心には常に謎が領している。

グレタ・ガーウィグ監督の『レディ・バード』を見て、またあのときの恩師の言葉がうかぶ。レディ・バードことクリスティンは思いつきで演劇を始めてみても、彼氏をつくっても長続きしない。母親はノックをせずに部屋に入ってきて、ガミガミいう。父は優しいが、失業していて元気がない。親身になって接してくれる友達との約束を破って、よりスクールカーストの高い美人の女の子と友人になろうとする。そのほうが自分のステータスになるから。映画を通じて、ほとんど良いことをしない。どちらかというと、ダメなことばかりしている。不良とはいわないが、反抗期である。お母さんが厳しすぎるので、同情の余地はあるけど。

しかし、さばさばしてあけっぴろげなのが、クリスティンのいいところである。衝動的に行動し、失敗し、あっけらかんと立ち直り、また失敗する。映画冒頭で、母の運転する車の中での母子喧嘩。クリスティンは、怒りに身をまかせ、走る車から飛び降りて骨折する。そしてピンク色のギプスをつけるはめになる。この、彼女の右腕にはめられたギプスが、”物語”の兆しなのだろうと思う。ギプスは彼女を拘束し、自由な動きを妨げるものであるが、それによって彼女は保護されてもいるのだ。ギプスも、学校も、親友も、恋人も、母も、自分を守ってくれるものだが、ときとして鬱陶しい。守ってくれているときは、その鬱陶しさだけが鼻について、それらが自分を守ってくれていることに気づきにくい。

映画の終わり、クリスティンはこれまでのしがらみから逃れるチャンスを手にする。そのときにやっと、クリスティンはそのしがらみが、面倒だけど、かけがえのないものであったことに、ちょっとだけ気づく。腕は完治し、ギプスを外したクリスティンの内面には、ちょっとした変化が起こる。極悪人が急に善人になった、というような劇的な変化ではない。あくまで、ちょっとだけ、変わるのだ。いままで鬱陶しいと思っていたもののなかに、自分のことを大切にしてくれている皆の気持ちを発見する。

この女の子が、エンディングちかくで自分のことをレディ・バードでなく、嫌っていたはずの、本名のクリスティンと名乗ったときに、じんわりくるものがあった。「あ、いま本名を言った!」と、嬉しくなった。ストーリーが”物語”になった瞬間のような気がする。クリスティンは、鳥のように自由になりたかったから、自分のことをレディ・バードと名付けた。しかし、その名前を名乗っているときよりも、その名前を捨てたときのほうが、少しだけ自由になっているような気がした。


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