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ひとりガッツポーズ

おはようございます。社畜で恐妻家の「いつもタツオ」です。

このnoteでは、がんじがらめの状況でも、フェイクや根回しを駆使して、如何に自分の時間を作れるかを日々、研究し実践しているよ。(今日は5分で読める)


今日は本題とは少し外れちゃうんだけど、皆んなガッツポーズって1回くらいは やったことあるよね。

そう、勝負事の最中や勝った時に思わず でちゃった経験がある人もいるでしょ。

今年の甲子園でも頻繁にガッツポーズをする選手に注意があったね。

相撲では朝青龍が横綱の時とか、しょっちゅうこれで揉めていたね。

咎められる理由として相手に対して敬意が欠けているってことの様だけど、少しオーバーに言えば「自然にでちゃう生理現象的」なところもあるから厄介だな。これを「生理現象的ガッツポーズ」とでも呼ぶことにしよう。

僕は学生時代、サッカー部に所属していた。ゴールや勝利の直後は「ガッツポーズ」+「雄叫び」くらいやらないと気が済まないね。(ちなみにガッツポーズ多発の卓球やプロレスも好きですイヤアオ!)

この生理現象的な動作の爽快感たるや、この上ない訳よ。

これを人間の理性に訴えかけて、倫理観で抑えようというのは、正直難しい問題だ。

僕ら人間は本来、動物であり感覚優位の生き物であると僕は思っている。

「生理現象的ガッツポーズ」は、爆発しそうな歓喜の熱りを「拳」一点に集めて鎮火する様な感覚だ。(自分に酔いすぎるとヤケドしちゃうよクーッ!)

僕の最近の取り組みとして、「五感」を鍛えて自分の中に眠っている「野生」を呼び覚まそうとしている。(休日は五感のうち、どれか一つの感覚器官にフォーカスを当てて生活している。これは自分が試した中で最も五感を磨ける方法だと思ったからだ。)

そして「生理現象的ガッツポーズ」も正に人間の「野生」を象徴しているのでは無いかと。

そう、僕の「超絶くそ野郎の流儀」では、この「野生」の感覚こそが重要だ。

スポーツの世界だと、この「野生」を「野蛮」と思われてしまうから咎められるのだろう。

だけど、生きるか死ぬかを掛け研究実践している「超絶くそ野郎の流儀」においては、そんなキレイ事は言ってられないのだ。

そこで考えた。

ガッツポーズの力を利用して、一瞬にして「野生モード」に切り替えられないかと。

ここでいう「生理現象的ガッツポーズ」とは逆説的な使い方をするってこと。


・歓喜や興奮→ガッツポーズ(生理現象的ガッツポーズ)

・ガッツポーズ→歓喜や興奮を呼び覚ます(野生)


つまり何が言いたいかっていうと、気力が無くなったときに、ガッツポーズからやる気を引き起こすってことだね。

これを「自己暗示系ガッツポーズ」とでも言っておこう。

日常的に行うならば、さりげなく自然体で行えば、他人からも変な目でみられずに済むだろう。

誰もいない会議室でc.ロナウド的(ド派手)なガッツポーズもいいかもしれない。

声を出せる環境なら一緒に「雄叫び」をあげると効果倍増だ。(是非とも握った拳を小刻みに震わしてみてくれ、気合いが漲ってくるでしょう)

時と場合に応じては、人に見せつけてもOK。ガッツポーズの便利なところは、誰がどう見てもやる気に満ち溢れている様にみえるところだ。

政治家のポスターなんてガッツポーズだらけだよ。(最近は走ってるやつも多いが...。)

皆さんもガッツポーズの力を利用して正念場を乗り切ってみては如何だろうか。

最後まで読んでくれてありがとう。

-おしまい-

#エッセイ #コラム #サブカル #ガッツポーズ



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