カルト宗教二世の我が家で起こっていたこと

※特定の宗教を批難する意図はありません。
※あくまで私の家庭に起こっていたこと、をメインに述べます。

当時高校生の私に父は言った。
「誰のおかげでバイトできてると思ってるんだ!神様のおかげだろ!!!ちゃんと給料をお供えしなさい!!!!
と。

バイトとは個人の努力でできているもの、
という考えは親には存在しない。
全ての良いことは神様のおかげで、
よくないことは神様への信仰が足りないから起こる、
という至極シンプルな思想によって親の脳みそは成り立っていた。

ちなみに「お供え」、
とは今をときめく献金をソフトに言い換えたワードで、
要は宗教団体に対するお布施である。
私は幼少期からずっと、
この
「お供え」
に悩まされ続けて育った。
簡単に言うと誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもお年玉もお小遣いももらえず、
無理やり全てをお供えさせられていた。

うちの両親および親族は某カルト宗教のガチガチの信者で、
私はそのエリート一族の元に生まれ育った。
「神様の教えは絶対。神様の教えを信じない奴はクソ。」
という厳しい教えの家庭環境に育ち、
ゴリゴリのエリート信者爆誕かと思われたが、
私には洗脳は通用しなかった。

なぜか。

私にはクリスマスも誕生日もお年玉も存在しないのに、
宗教の偉い人がベンツに乗っていたからである。


・・・・・・・もう少し詳しく話そう。

私を苦しめた宗教の教えには
「貧乏であれ。」
というベースの教えがあって、
貧乏になってどうするかというと、
結局はとにかく自分自身が極端に貧乏になるほど献金しろということなのだけど、
そのために信者は金を巻き上げられ、
貧乏生活をしている者が多くいた。

うちに至っては、
貧乏すぎて地域の神社の奥に一家七人で住んでいた。
よく私はネタ的に貧乏すぎて幼少期神社に住んでいた、
という話をするが、
貧乏すぎた理由は1000000000%宗教にある。

そしてここからがちょっと複雑になるのだが、
私達のお供えで、
従兄弟一家は生活していた。

どういうことか?

従兄弟の家は「教会」であり、
うちは末端信者だった。
「教会」の家族は信者からお布施を集めて、
労働することなく生活をし、
余暇の時間を「布教」に充てていたのである。
(布教した方がもっとたくさんお布施をゲットできる!)

さらに教会の上には「大教会」が存在し、
大教会は「教会」から集めたお布施で生活をする。
そしてその大教会の上にはさらに巨大な教会があり、
最終的には教会が教会や末端信者からお金を集めて集めて集めた先には、
宗教の本部があった。

も う お わ か り で す ね ?


そう、うちの宗教は、とにかく金を集めまくり、

上に行けば行くほど金が集まって笑いが止まらないシステム

になっていたのであった。
(たぶんカルトのほとんどは同じシステムになっていると思う)

宗教のトップは本当か嘘か知らないが、
虎を飼っている
という噂を聞いたことがある。

本当でも嘘でももはやどっちでもいいのだが、
そんな噂が流れる程度には、
トップは金を持て余している
と末端にバレているのも宗教を信仰しない私には滑稽だった。


話をベンツの件に戻そう。


私はお供えシステムのせいで、
誕生日もクリスマスもお年玉もお小遣いも存在しない365日を過ごし、
学校のお友達と比較をしては
「なんで私だけがこんな目に遭わなくてはいけないのだ」
と常々思っていた。

お供えなんかなければ・・・・・・

ずっと思っていた。

そんな時に私は見てしまうのである。

大教会の会長が、
ベンツに乗っているのを。


私は親に言った。

「おいおいおいおかしくないか????なんで末端の我々がこんなに貧乏で苦しい思いをしているのにアイツは高級車に乗ってるんだ??????」

と。

親は言った。

「あれは・・・信者さんが乗って欲しいってお供えしたからいいの・・・
と。

・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな理由で、
お供えフラストレーションを溜めまくっている私に通用すると、なぜ思ったのか。

私が信者にならなった理由のほとんどが、
親が馬鹿だったから、
で説明できてしまうことがとても悲しい。

親は、信心深くはあったが、
知能が限りなく低く、
私が理詰めでお供えをしなくていいように話を持っていこうとすると、
「お前なんかうちの子じゃない」
「お供えしないならバイトなんて辞めてしまえ」
などの極論に出るタイプだった。

そうして私の心は傷つけられていき、私は立派なメンヘラに育った。

私の二つ下の弟は、
ゲームが大好きでゲームがどうしても買いたくて中学生の頃から朝夕の新聞配達をしていたのだが、
ほぼ全てを強制的にお供えに持って行かれ、
毎月彼の手元に残るのは千円だけだった

頑張って千円を得るか、
お供えしたくないから新聞配達自体をやめるか。

弟はゲームのために、
毎月の千円のために、
朝夕の新聞配達を続けていた。

涙無くしては語れないエピソードである。



思えば宗教のせいで、幼少期に
「親子らしいコミュニケーション」、
が存在しなかったように思う。

私は成績が良い方の子どもだったけれど、
褒めてもらうということがなかった。
「イツキちゃんが頑張ったからだね、偉かったね」
などとは一度も言ってもらったことがない。
じゃあどうなるのかというと、
「神様のおかげだね。神様に感謝しないとね」
になるのである。

よいことは全て神様のおかげ。
私の努力?
そんなものは少しも気にかけられない。
とにかくいいことがあれば神様に感謝。
そしてお供え。
悪いことがあれば
「信心が足りないせいだ」
といってさらに信仰を強くするように求める&お供え。

私は金をむしりとられた上褒められるという経験をしないまま育ち、
そのうち第二の信仰しない理由
「難病にかかる」
が私にやってくるのであった。

私は中学二年生の時に「クローン病」を発症した。
故安倍元首相の「潰瘍性大腸炎」は聞いたことがあると思うが、
それより数倍強いのがクローン病である。

私は14歳にして、
首相退陣レベルの病気にかかってしまったのである。

心から信仰していた、かどうかは置いておいても、
私はそれまで他の子ども達がしないような苦労をたくさんしてきていた。

それなのに。

それだから?

私は治す方法のない難病になった。


病気にかかった私に対して、
親は私に謝るというウルトラC的な行動に出た。
「子どもが15歳までにかかる病気は全て親のせいという教えだ。だから我々のせいだ。申し訳ない。」
と。


私は別に謝ってほしくなんかなかった。


ただ、
「つらいね」、
と、
寄り添ってほしかった。


しかし親が次に繰り出してきたのは、
うちの宗教が得意とする
ホイミの儀式
だった。

正確には「ベホマの儀式」かもしれない。
うちの宗教には、
「病を治すことができる儀式」
が存在しており、
修行をした者はその儀式を行えるということになっていた。

私は毎日儀式を繰り返された。
しかし当然ながら私の病状は良くなるどころか悪化し、
入退院を繰り返していた。

そこへ鬼の首を取ったかのようにやってくるのが、
従兄弟、「教会」の者だった。

「フミの信心が足りないせいで病気が良くならない。もっと信仰しろ」

と教会の者は言った。

私はちゃんちゃらおかしくて、
腹が立って、
悲しかった。

私の側には、
私が病気になっても寄り添ってくれる人はおらず、
謝ったり、
ホイミの儀式をしたり、
「信心が足りない」
と言ってくる人しかいない、ということが、
つらくて、
みじめで、
泣いても泣いても足りなかった。


それでも
「完全に信仰しない」
というのも、
ゴリゴリの洗脳教育の下にあっては、難しいことだった。

「神様なんていない。いたとしても性格が悪すぎて嫌いだ」
と思ってはいても、
どこかで
「私が悪いんじゃないか」
「私が信仰しないせいで病気にかかったんじゃないか」
という思いも過り続けた。

36歳の今になって、
やっと、
「そんなわけない」
と心から思えるけれど、
当時は難しかった。

私以外の大人が全員
「私が悪い」
と言った。
私が信仰しないせいで病気が治らないと言った。
そうなのかもしれないと、
どこかで思っても仕方がなかった。



親の視点で考えてみる。

私は多分、親に全く愛されていないわけではなかった。

親は私を愛していたからこそ、
自分が信じるものを絶対に娘にも信じてほしくて、
ハードな教えを敢行したのだと思う。
それは結果的に裏目に出るわけだけれど、
多分私を思っての行動だった。

ホイミの儀式にしてもそう。

病気にかかった娘に謝ったことにしてもそう。

「それが最善」だと思っているから、
娘にしてしまうのである。

闇が深い。

親は私を愛していたが、
愛し方を間違えていた。
私の求める愛し方ではなかった。
多分、それだけだった。



宗教は悪なのだろうか?

一概にそうは言えない、と思う。
カルトは悪だと思う。
カルトは悪だと思うけど、
世の中にはよい宗教だってあると思う。

本来宗教とは心の拠り所にできるようなものであって、
生活全てを差し出せとか言い出すのがカルトであって、
切り離されて考えられるべきだと思う。

良い宗教なのか悪い宗教なのかを考える時、
金を無心されまくる宗教は悪い宗教だと言って問題ない気がする。
(よい宗教がどれだけあるのか知らないが)

そして信仰の自由は誰にでも当然にあるべきであって、
親が信者だから子どもも信者にならなきゃいけないなんてことは、
絶対にない。
あってはいけない。

親は子どもを大切に思うのなら、
自分達の考えを押し付けるのではなくて、
エッセンス的に匂わせるくらいで、きっとちょうどいい。

もしもエッセンスで子どもが自主的に信者になるならそれでいいし、
エッセンスが合わない場合は子どもは別の道を行く。
子どもは親の分身ではなく一人の人間なのだから、
親と別の道を行ったって当然だし、
その権利がある。

親にその道を邪魔する権利はない。
むしろ、親は絶対にその邪魔をしてはいけないのだ。

そしてこれはきっと宗教だけでなく、
子育て全般に言えることだと思う。



最後に、
復讐をしたいと思うか、
について書きたい。

私は宗教のせいで嫌な思いをたくさんしたし、
メンヘラに育ったし、
普通じゃないことがたくさんあった。

じゃあ、宗教のボスを殺したいと思うか?

答えはNOである。


私は私の善悪に基づいて生きて行動をしているわけだけれど、
私の善悪のベースに何があるかというと、
宗教以外の親の教えなんじゃないか、と思う。

人を殺してはいけない。

その、簡単なようでいて理由を説明せよと言われたら実は難しいことを、
私は多分親に習った。

じゃあ、親が宗教にかまけて、
それを教えてくれなかったら。

善悪のベースになるものを、
親から教わらなかったら。

いくら「普通に考えればわかるじゃん」と言ったところで、
それはあなたが普通の教育を受けられたからそう思えるのであって、
もしも「普通の教育」を親から受けられなかったら。

私はどうなっていたか、わからない。

山上容疑者を、
擁護するつもりはない。

ただ、
「自己責任論」は、何も産まないと思うのだ。

第二の山上容疑者を生み出しこそすれ、
誰も救われない。

社会はこれから、
宗教信者二世のような苦しみを抱えている人に何ができて、
どうケアしていけるのか。

そこが話し合われなければ、
第二の山上容疑者誕生までのカウントダウンをしているのと同じなのではないか。


きっと他にもいろんな理由で苦しい思いをしている人はたくさんいて、
その人たちをケアできずに「自己責任論」で追い詰めて、
歪んだ刃が誰かに向いてしまうことがないようにと、
私は願っている。





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