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極貧神社暮らしから始まった私の人生の話

 子どもの頃、『貧乏すぎて地域の神社の奥に一家で住んでいた』、と人に言うと、ほぼ100%の確率でビビられ、
「神社って住めるの?」
 と訊かれる。多分、普通は住めないと思う。だって今まで生きてきて、『わかる〜ウチも〜』という人には会ったことがない。
 別に神主でも何でもなく、ただ住んでいるだけ。私が住んでいた神社が特殊だったんだと思う。
 うちの親は、両親ともに無職、というユニークな二人で、当然お金がなくて、町内会の人に
「神社の管理人をするなら神社にタダで住んでいいよ」
と言われたので、二つ返事で頷いて神社に住むことにした。
 最終的には五人兄弟一家七人で、私が高校二年生になるまでたった二部屋の、風呂なしの神社の奥に住んでいた。
 私の人生は、どう足掻いたってこの『神社暮らし』から始まる。

神社暮らし

 住んでいた神社の奥はかなりボロくて、お風呂もなければトイレも簡易水洗みたいなトイレだし(行くのがめちゃくちゃ怖かった)、夏場は虫が大量に発生するし(いまだに虫は超怖い)、冬場は室内なのに玄関が凍って開けられないほど冷えた。冷えエピソードで言うと、冬に道路で轢かれた鳥を救助して鳥籠に入れて廊下に置いておいたら、翌朝鳥がカチコチになっていたことがあった。真冬の北国の室外と変わらない気温。それほど神社は寒かった。
 割れた窓ガラスをガムテープで止めていたのをとてもよく覚えているがそれも寒さの一因だったと思う。
 神社の暖房は薪ストーブだったので、ちょっと家(神社)を空けると氷点下の気温になった。祖父母の家に泊まりに行ったりなどして帰ってくると、神社の中は外と同じ気温で息が冷たいどころか玄関(玄関的なところ)が凍って開かないなどした。
 神社は隙間だらけだったので、神社の中でカニと見まごうレベルの巨大な蜘蛛に遭遇したこともある。その時私はしょっちゅう家(神社)の中で蜘蛛の糸に引っかかっており、『相当デカい奴が住んでるな』とは思っていたのだが、まさかカニレベルとは思わず出会った時は絶叫した。ちなみにその時父が退治してくれたのだが父は覚えていないらしい。それほど巨大な虫との遭遇は日常茶飯事だったということだと思う。春は起きると枕元や布団にわらじ虫が何匹もいたり、甘いものをこぼすとすぐアリがやってきたのはよく覚えている。神社は、『室内』、というにはあまりに隙間がありすぎた。半室内、くらいだったんだと思う。
 神社は町内会が運営している神社で、住むには、『神社の管理人業務をする』という約束の上で住んでいたので、両親は無職ながら春夏秋冬神社の管理人業務だけはしていた。
 春は神社の境内でカラスが雛を育て、飛び立てなかった雛を守るため親ガラスが神社に近付く人を攻撃するため、父がドラクエの初期装備並みの軽装で親ガラスにめちゃくちゃ攻撃されながら近所の川まで雛を移動させていた。ちなみにその季節になると学校から『神社に近付くとカラスに攻撃されて危険なので近付くな』という文書が配布されていたが、私は近付くどころか住んでいたので避けようがなかった。
 夏は神社の境内でお祭りが行われるためその準備に加担したり(お祭り時期はカラオケ大会が開かれめちゃくちゃうるさかった)、秋は大量の落ち葉拾いをしたり、その落ち葉で焼き芋をしたり(これは父の趣味なので管理人関係ない)、冬は大量の雪で参拝通路がなくなったので、境内の雪かきをしたりしていた。大体の業務は手伝わされて謎に四季を感じていた。
 その他に子ども時代のお手伝いとして、普通の家では決して行われないことであろう、お札やお守りを買いに来た人に売ったり、おみくじを売ったり、年明けに大量に置いていかれるお正月飾りをどんど焼きしたり、神社の隣にあった中学校の女の子が二人で訪ねてきて、
「コックリさんしてたら友達がおかしくなっちゃったので治してほしいんですけど」
 という依頼を、
「うちは住んでるだけなので・・・」
 と断ったりしていた。だって、本当に住んでるだけだから・・・
 神社におみくじやお札を買いに来た人も、チャイムを押して出るのが子どもだからビックリしたと思う。
「神主、若いな・・・?」
 と思われていたかもしれない。
 神主が若いと思われてなめられていたのか、神社にはよく賽銭泥棒が入った。賽銭を入れるところが木製の扉だったので、よく破壊されて賽銭が盗まれたのだ。賽銭泥棒はあまりに頻発するので途中から扉を鉄製に変えられた。それでも賽銭泥棒の泥棒根性も強く、神社側のトイレの窓から侵入し、賽銭を盗まれたこともあった。それからトイレの窓にも柵がつけられた。それから賽銭は盗まれなくなった。
 神社暮らしで楽しかったことは、冬に雪が積もりすぎて神殿の上へのアクセスが容易となり、神殿の上を駆け回ったこと。新雪というのは子どもの心をときめかせるもので、雪が誰にも踏まれていない場所しかない(そりゃそうだ)のが嬉しくて仕方なくて、私は神殿の上の雪を踏みしめまくり、思い切り新雪を食べまくっていた。新雪にかき氷のシロップをかけて食べられたらいいのにといつも思っていた。神様の上を駆け回り雪を貪るなんて無礼すぎて今思うと恐ろしいが、子どもにとってはそんなこと知ったこっちゃない。
 あとは神殿の屋根からできるつららが巨大すぎて、戦うもよし無限に舐めるもよしだった。今思えば汚くてしょうがないけど、子どもの頃は雪もつららもいくらでも食べたかったのだ。
 勝手に神殿に侵入し、参拝に来る人を驚かせて遊んでいたこともある。まさかあのガランガランの奥に人がいるとは思わない参拝客は皆一様にギョッとし、ナイスリアクションを見せてくれた。私はそのリアクションを見るのが大好きだった。
 境内が庭がわりだったので、私は参拝するところの階段を利用して竹馬(父製)の練習をし、弟は境内を走り回って転び、狛犬の角に目の上を強打してめちゃくちゃ目を腫らしたこともある。狛犬さえいなければ防げた事故であるが、うちは神社なのでしょうがない。自転車に乗る練習も境内だった。鳥居から参拝所へ一直線に向かうコンクリートの上で何度も練習して自転車に乗れるようになった。まじで境内は庭だった。
 境内、と呼ぶにはあやしいが、一応神社の敷地内で夏に父はバーベキューも開催していた。御神体の真横で家族で夏に肉を焼いて食らっていたのだ。家族だけならまだしも父は親類を神社に招待したりしていた。ただ住んでいるだけの分際で。今思えば罰当たりだなと思うが、子ども時代は楽しみな行事の一つだった。
 どうでもいいが、神社の隣にはラブホテルが建っており(どんな立地?)、幼い私は中に入っていく人をしょっちゅうレポートしていたらしい。
 神社には二部屋しかない、と書いてきたが、正確には住居エリアと神殿エリアに分かれていて、神殿エリアには神殿とその前室みたいな部屋が一部屋あった。その部屋には母親の荷物がびっしりと置かれ、神社のイベント事がある度にその部屋を空にしなくてはいけないので、家族でバケツリレー的に荷物を住居エリアに運ぶという大仕事があった。その時は一部屋がモノで埋まるので、もう一部屋に七人という異様な人口密度で暮らさなければいけなかった。
 思春期になった私は当然のように自分の部屋が欲しくなり、狭い二部屋から神殿の前室に自分の荷物や寝具を持ち出して、前室を私物化することに成功した。しかし、神殿の真横なので、四六時中鳴らされる賽銭を入れる音や神社のガランガラン音に悩まされたのだが、すぐに慣れた。余談だが、前室を勝手に私物化するようになってから、私はめちゃくちゃ頻繁に金縛りに遭うようになった。とんでもなく怖かったが、それでも私はどうしても深夜ラジオを聴きたかったので前室から出るわけにはいかなかった。
 それでも七人に三部屋は狭すぎたので、父が勝手に神社の敷地内に物置きとしてプレハブ小屋を建てる、という事態もあった。神社は薪ストーブだったので大量の薪と父の大工道具が保管されていた。夏場は部屋が暑くなるので、母がそのプレハブで火を使う調理をして、居間的な部屋に運んだりしていた。あとは父親のエロ本がよく発見されたので多分父のエロ本置き場としても機能していたのだと思う。エロ本を堂々と置くな。
 そして神社はあくまで町内会の持ち物なので、前室を町内会のおじさんが自由に出入りしていた。つまり、私が『自分の部屋』としていたところは全然自分だけの部屋などではなく、『町内会のおじさんが自由自在に出入りできる神殿の前室』でしかなかったのだ。おじさん達は私が寝ていようと着替えていようとノックもなしに入ってきたので、思春期の私がパンツを履き替えているところにおじさんが登場したことも何度もあった。ちょっとしか知らない町内会のおじさんに、思春期女子がお尻を見られるという日常。私の羞恥心は次第に死んでいった。
 羞恥心が死ぬ、に至るには、おじさんにお尻を見られる以外にも色々あって、私が神社に住んでいるということは小学校の時点でクラスメイトには知られており、私は『イツキ神社』と呼ばれ、当然のようにいじめられていた。なるべく隠したい自分のウィークポイントは、中学校で決定的になり、さっきも書いたように神社の隣に中学校があったので、中学校に進学すると、学校中の誰もが『イツキ神社』を目撃しながら登校していた。誰にも知られたくない神社暮らしなのに、みんなに知られる以外の選択肢がない。私は恥ずかしい、という気持ちを殺されなければやっていけなかった。
 ちなみに神社暮らしを卒業してから二十年ほど経つが、私が『実家』の夢を見る時はいまだに神社が出てくる。私の脳みそは家=神社とインプットされたまま更新がなされていないらしい。

お金がない

 両親が無職だったので、当然信じられないほどお金がなかった。両親は無職ネットワークを駆使して、パン屋さんから廃棄のパンをもらったり、和菓子屋さんから廃棄の和菓子をもらったり、漁師さんの隣に住んでいる人(漁師ではない)から魚をもらったり、居酒屋さんから大量の卵白をもらったり、鶏皮をもらったり、農家の友達から野菜をもらったり・・・などして生活していた。親は食べ物をもらう以外にも、神社の敷地内で勝手に家庭菜園をしてきゅうりやトマトやいちごなどを栽培していた。
 着るものは全てお下がりで、知らない人の苗字が書かれた服を当たり前のように着ていた。お下がりだけで暮らしているおかげで、私は小学校一年生にして真っ赤なパンツを所持していた。
 お下がりは着るものだけには留まらず、学校で必要な持ち物もほぼ全てがお下がりで、それもまた知らない人の苗字が書かれているのが日常だった。中学校の制服すらお下がりで、(私は割と長身だったので合う制服を見つけるのは難しかったと思う)私はその無職ネットワークに感動すらした。
 私が小学校中学年くらいになると、父がバイトを始めた。雇用形態に大きめの疑問が残るが、無職よりはマシだった。その頃になると毎週末札幌のどこかで行われているフリーマーケットに家族でよく出かけた。色々なものを激安で入手するのは楽しかった。私は学校でいじめられ、典型的なコミュ障であったが、ほぼ毎週末のフリマで金額交渉をする術だけは身につけていた。
 当然うちにはお小遣い制度は存在せず、欲しいものがあれば申請し、許可が降りれば買ってもらえるというシステムだった。許可が降りることは稀だったが、スーファミ全盛期にファミコンをフリマで入手し、プレステ全盛期にスーファミをフリマで入手するなど、うちにやってくるものには世間と時差があった。
 家族七人で見るにしてはテレビもすごく小さくて、リモコンが普通の時代にチャンネルはテレビ画面の下についているスイッチで物理的に変更していた。神社には狭いのに父専用の椅子があって、父はその椅子から自在にチャンネルを変更できる『異様に長いただの棒』を所持していた。
 お金がなさすぎたのもあり、うちには誕生日祝いというものも特になく、
「誕生日は産んでくれた両親に感謝する日」
 と言われていたのでプレゼントをもらうどころか両親への感謝を強要されていた。強要される感謝はもはや感謝ではないと私は思っていた。
 当然クリスマスもなかったし、お年玉はほぼ全て(千円だけもらえる)親に没収されるので、お正月、私はいつも親戚からのお年玉は無の感情でもらっていた。
 弟はどうしてもゲームを買いたくて中学校から新聞配達をしていたが、新聞配達をしてももらえるお金はほぼ親に没収され、弟の手元に残るのは毎月千円だけだった。千円のために弟は朝刊も夕刊も配達していた。涙なくしては語れないエピソードである。

お風呂もない

  神社には人が住むことが想定されていなかったので、お風呂がなかった。当然シャワーもない。お風呂がないのが普通の時代ではなく平成の話である。お金がないので親戚の家に行ってお風呂を借りるか、近所の優しい方のおうちのお風呂を借りたりしていた。銭湯はお金がかかるのでそんなにたくさんは行かなかった気がする。冬になるとお風呂帰りに髪の毛が凍ってバッキバキになっていたのを思い出す。
 私はおうちのお風呂あるあるに全然参加できないので、お風呂トークに異様に敏感だった。学校や友達の間でお風呂の話題が出る度にいつもドキドキしていた。
小学校でプール学習がある時には、学校から『前日お風呂に入ってくるように』というお達しがなされていたので、私は『イツキは風呂入ったか?』などとからかわれたりもしていた。今なら『いや入ったし』と返せるが、当時は返せなかった。だっていじめられっ子のコミュ障だったから。(コミュ障気味なのは今でも現役だが)
そうして私はお風呂がない神社住まいということがクラスメイトにバレていたので、
「臭い」
 と言われるシンプルいじめに遭っていた。
 お風呂に入るのは二日に一度だったので、確かに臭い日もあったのかもしれないが、お風呂に入った翌日も臭い臭い言われていたので、『いや昨日風呂入ったわ!』と言いたかった。言えなかったけど。
 シンプルいじめに耐え抜き、高学年になる頃には貰い物の服でおしゃれをする術を身につけていたので、高学年の頃はいじめられていなかった。ちょっと明るい私が顔を出した瞬間だった。
 けれど中学生になる頃私は持病のアトピーが劇的に悪化し、中学校の誰もが神社を目にしながら登校することに心も折れ、再び根暗のコミュ障に戻った。
 アトピーがひどいので、私は毎日お風呂に入りたかったが、残念ながら私の住んでいる神社にはお風呂がない。その頃私は首の皮全てがカサブタで構成されるほどアトピーが悪化していたが、自分ではどうすることもできなかった。

兄弟だけは多い

 私は今時珍しい五人兄弟で、上から二番目として育った。貧乏子沢山というのは本当だなあと思う。母は上から男、女、男、女、男、と、綺麗すぎる産み分けをした。神社に住んでいて大家族なんて、いつテレビにバレて取材が来てしまうんじゃないかと私はいつもハラハラしていた。
 上三人までは二つ違いで、いきなりそこから七年空いて、年子が爆誕した。私は子育てをだいぶ手伝った。今でも生まれたてホヤホヤの首が座ってない赤ちゃんを余裕で抱っこできる。下二人にはミルクもあげたしおむつも変えたし寝かしつけもした。下二人は半分私が育てたようなところがあるので可愛くて仕方なかった。二つ違いの兄や弟との喧嘩はたくさんしたけど。
 でも育てたと言っても小学校三年生の子育てなど無理がありすぎて、ある時私はハイハイができるようになったばかりの、九つ離れている妹をおばあちゃんの家の二階に置いて下でいとこと遊んでいたらゴロンゴロンゴロン、ビタンッ!とすごい音が聞こえてきて、ちょっと時間差でギャー!という泣き声が聞こえてきた。慌てて廊下に出ると、ハイハイしかできないはずの妹が階段の下でうずくまってギャン泣きしていた。一人で二階に置いて行かれて淋しかったのかもしれない。ハイハイしかできないから階段には来ないだろうと思ったが、そんなはずはなかった。階段を二階から転がり落ちた妹は奇跡的に無傷で、それから階段を極端に怖がるくらいで済んだ。今も妹はピンピンしているが、あの時大きな怪我を負わなくてよかったと心から思う。妹は覚えていないくせに今でもこの時の事故のことを昨日のことのように責めてくる。
 私には弟が二人いて、二つ年下で兄弟のど真ん中、全身タトゥーだらけ、ピアスだらけのアウトロー丸出しの弟と、十歳年下の国立大の大学院卒の賢いメガネの弟がいる。頭の悪い両親から国立大に行く子が産まれるなんて、『五人産んでみるもんだ』と母は言っていた。
 二つ年上の兄には生まれつきの知的障害があって、私は
「お父さんお母さんが死んだらお兄ちゃんの世話を頼むな」
 と事あるごとに言われて育った。それは親的には心配で仕方なくて発した言葉だったのだろうが、私には呪いの言葉にしかならなかった。私は将来兄のお世話をしなきゃいけないから普通の子みたいに幸せになれないのだ、と子どもの私は思った。私は将来の自分達兄弟の幸せのために、少年法で守られている間に兄を殺そうか、どうやって殺そうかと考えていたこともある。赤川次郎先生が好きだったのでトリックを使えないかと思ったりもしていた。
 ある程度大きくなってから、兄弟が多い理由を訊いたら『お兄ちゃんの面倒をみる人は多いほうがいいと思ったから』と母が言っていた。私たちは兄を介護するために産み出された、と言われているようなものだった。私は冗談じゃない、と思った。私は私の人生を生きたかった。
 両親のするべきことは、障害児が生まれた時点で兄弟をたくさん作ることではなく、働いて兄の将来のために貯金をすることだったと思うが、両親はそうしなかった。宗教のせいで。

両親が無職の理由

  両親が無職を貫いていたのは、簡単に言うと『宗教』が理由だった。両親が信仰している宗教には、『貧乏であれ』という教えがあり、それを忠実に守っていたゆえだった。正確に言うと、両親だけではなく、両親の家系全員がその宗教の信者で、働いていない人、というのは私にとっては珍しい存在ではなかった。
 両親や親戚は私が幼少期からゴリゴリに私にその宗教の教えを教え込んだ。エリート信者爆誕かと思われたが、私はむしろ宗教アンチに育った。神様がどれだけ偉いか知らないが、貧乏すぎて一家で神社に住み、誕生日もクリスマスもお年玉もない一年を過ごし、学校ではいじめられ、アトピーがひどいからお風呂に毎日入りたいのにそれも叶わない。この状況のどこに幸せがあるんだよ、と思っていた。
 両親は宗教の教えに則り無職期間は『人助け』をしていたらしいが、見知らぬ人を助けるより先にまず家族を幸せにしてくれよ、と私は常々思っていた。
 そう、私は少し前に話題になった、『宗教二世』そのものだった。両親および親戚一同に信仰を強要され、与えられるはずのお金はほぼ全て奪われ『お供え』と言う名の献金に使われた。
 両親の様々なことの判断基準は至ってシンプルで、いいことがあれば神様のおかげ、よくないことがあれば信仰が足りない、だった。たとえば私がテストで高得点をとったとしても、それは神様のおかげであり私の努力は一切認められない。私は幼少期両親から褒められたという記憶が全くない。宗教のおかげで健全な親子のコミュニケーションすら阻害されていた気がする。そのせいで私の自己肯定感は全く健康的に育たなかった。
 私の宗教アンチモードは、ある日大教会の会長がベンツに乗っているのを見た時に決定的になった。
「なんで私たちはこんな貧乏な思いをしているのに会長はベンツに乗ってるの!?」
 と親に詰め寄ったが、親は
「あれは信者さんが会長さんに乗ってほしいって贈ったものだからいいの」
 と言った。おいおいなんだよ貧乏になるんじゃなかったのかよ、貧乏になって人助けをするんじゃなかったのかよ、今すぐそのベンツを売って人助けしろよおかしいだろ。と私は思い、その日からなんてくだらない宗教なのかと完全に思うようになった。むしろあのベンツを見ても信仰を続けられるなんてことの方が、私には信じられなかった。
 ちなみに献金は私がアルバイトをするようになってからも続き、
「神様のおかげで働けているんだからバイト代の一割をお供えしろ!」
 とほぼヤクザの父に言われて泣く泣く一割をお供えしていた。バイトが出来ているのは私の努力のおかげなのだがそんな理屈は親には通用しない。
「お供えしないならバイトなんて辞めろ!」
 と平気で言う過激派の父だったので、私は無収入になるよりお供えを払うことでバイトを続けた方がマシだったのでお供えしながらアルバイトを続けた。
 母は献金しろとはあまり言わなかったが、私が大学生になって沢山働くようになると「電気代ちょうだい」「水道代ちょうだい」などと別の理由をつけてタカってくるようになった。もはやこうなってくると宗教は関係ない。親のモラルの問題である。私の親は悲しいほど超絶に低モラルだった。

ブスの呪い

 低モラルの両親から、私はことあるごとに『ブス』と言われて育った。
実際昔の写真を見たら確かにブスだな~とは思うのだが、幼い私は言われる度にしっかり傷付いていた。
 妹を見て気付いたのだが、両親は多分私に『ブス』と言うたびに、『もう!そんなこと言わないでよ!ぷんぷん!』というリアクションを期待し、そういうコミュニケーションがしたかったのだと思うが(妹はそういうリアクションが出来ていた)私は『私はブスなんだ・・・』と落ち込むタイプだったのでそのコミュニケーションは明らかに向いていなかった。
 ブスの自我というのはすごくて、私は『自分はブスなんだから』という前提のもとに考えて行動する癖がついていた。ブスなんだからちゃんと化粧をしなくてはいけない、ブスなんだからいつも身綺麗にしていなきゃいけない、ブスなんだからいい匂いくらいさせないといけない、ブスなんだからヒールくらい履かないといけない、ブスなんだから痩せていなくてはいけない、ブスに好かれたら迷惑だろうから人を好きになってはいけない・・・などなど、私はブスである自分にたくさんの制約を課していた。
 でもブスの自我は悪いことばかりではなくて、私はアルバイトをしてお金を得られるようになってから美容やファッションにお金を費やしてせめてもの抵抗を続けたことはいいことだったと思っている。学生の頃は『一番イケてる』という理由でギャル化したこともあった。これがもし卑屈になって「どうせブスなんだから何をしても無駄」となっていたら、今頃目も当てられない極みブスになっていたと思う。せめて前向きなブスでよかったと思っている。
ちなみにアラフォーになった今は、普通に綺麗にはしていたいけれど、自分がブスだとか美人だとかは他人に迷惑を掛けない以上もうどうでもいい、という境地に達している。 

その他の私の人生トピックス

 これまで書いたこと以外にも、14歳で肛門の横が腫れたことがきっかけで首相退任レベルの難病、クローン病(潰瘍性大腸炎の上位互換的な病気)が発覚したり、入院しまくったり、病院から学校に通ったり、摂食障害を発症したり、大学の学費を稼ぐためにホステスバイトをしたり、卒業後はうっかり超絶ブラック企業に就職してしまったり、ストレスで半端なく病気が悪化し病気を理由に半年でほぼ解雇されたり、開腹手術をしたり、初めて一人暮らししたマンションがあまりに治安が悪いスラムマンションだったり、言い寄ってくる男性達を断れないでいたらいつの間にか複数人の男性と同時に交際していて友達からはその男性達を「チームイツキ」と呼ばれたり、持病的に会社員が辛すぎて自営業ネイリストに転身し八年間やったり、うつ病になったり、コロナ禍とうつ病が重なって自営業を廃業して会社員に戻ったり、いつの間にかチームイツキは解散していて、結婚したいと思う頃には誰もいなくて猛烈婚活をしたり、などしながら、それでも私は今日も生きている。
 そう、生きているのだ。
 このトピックス多めの人生を、私は何とか生きている。こんな人生でも生きられるよと、誰かに示したくて。私は今日も生きて、書いている。
 生きてさえいれば、また会える。
 今度は上記のトピックスを詳細に書いた記事で、またお会いできることを願って。
 それでは、また!(笑顔で敬礼)

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