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お洒落じゃなければレジェンドでもない自分とクリエイター的なもの

先日、パン屋さん時代に大変お世話になった清水美穂子さんとお会いした。そのときと、その後のやり取りの中でこんな話題になった。


いつから「オシャレ(と言う言葉)」を使うのが恥ずかしい空気になったのか。という切り口から始まりSNS論になったところで、ぼくが「そろそろnoteで書こうと思っていたタイトルが『さよなら Instagram(SNS)』なんですよ」と、話が盛り上がった。

SNSについては以前にも書いているんだけれど、今回の本題ではないので少しだけ触れて、また別の機会に述べようと思う。

SNS、特に Instagramの登場以降、キラキラした私生活を中心に多くのプライベートが虚構も含め可視化されるようになった。それに飽きてくると、今度はその反動で槍玉に挙げられることになったのがその代名詞のような「オシャレ(お洒落)」という言葉なんだろう。
オシャレ(お洒落)は昔から普通に使われていた言葉や概念であって人格や感情はないけれど、もらい事故みたいなもので気の毒というか何というか、まぁこんな空気になると「オシャレ(お洒落)」という言葉自体が不憫でならない。

もちろんこういった背景には、キラキラしたSNSに飽きてきたこと以外にも大きな要因として、日本人の一部を除いた景気の悪さがあると思っている。
だから「もしこの先、本当に日本の景気が良くなることがあれば、そのときにはまたみんな普通にお洒落って言うようになると思います」と、ぼくの見解を清水さんに伝えた。

さて、本題。
先にお断りしておくけれど、こちらもあくまで私見である。

このオシャレ(お洒落)のように近年よく見聞きする言葉の中には、口にするのがむず痒い気持ちになるようなものが、ぼくにはある。
その代表的なものを挙げると「インフルエンサー」「レジェンド」「クリエイター」になる。
そう、noteユーザーなら頻繁に目にされているであろう、この「クリエイター」という言葉。

noteが10周年だそうで、水を差すようで申し訳ないのだが、ぼくは当初からこの言葉がやたら目に付くのがどうにも抵抗があって仕方がなかった。

noteユーザーにモチベーションを上げてもらうためにヨイショ、ヨイショと、あれこれ策を施されているのは理解できる。けれど、小説など創作物を発表されている人や書くことを生業とされているプロの人ならともかく、こんな駄文を垂れ流している者までクリエイターと一括りにされるのは正直、目にするだけでもかなり恥ずかしい。
note以外の場所でもこれを自称している人をたまに見かけることがあるけれど、率直にいってなんとも微妙な気持ちになるし違和感を覚える。
オシャレ(お洒落)同様、言葉自体に問題はないんだけれど。

何なんだろうな、これ。

外資系チェーン店がスタッフのことを独自の呼称にしているのを初めて耳にしたときのような、ちょっとした恥ずかしさにも似ている。

やはり言葉そのものでなく、その使われ方に違和感を覚えるんだろうな。
そしてぶっちゃけてしまえば、これらの言葉も「こだわり」と同じくらい、随分と安っぽい言葉になってしまったもんだなぁ、と個人的には感じている。



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