見出し画像

お洒落じゃない自分とInstagram的なもの

最近、SNSがおもしろくない、という声を聞く。
Threadsのタイムラインに流れてきた知らない誰かからも、会ったら何時間でも話していられる友だちからも聞く。

友だちの一人は、何を投稿していいのかわからないと、開口一番にのたまう。国内外のあちこちに頻繁に旅をして、グローバルに物ごとを考え、おもしろい人物と会う機会が多く、食に対しても高い意識を持つ友だちの日々は投稿するネタにこと欠かないはずだが、いまはそれを投稿する意味について立ち止まって考えてしまうという。

誰もが以前のように投稿しなくなっていて、わたしもSNSで過ごす時間が少なくなったからか、とくにFacebookなど、広告ばかりが流れてくる。あるいは犬たちのコミカルな投稿がタイムラインのメインストリームとなりつつある。

以前なら、Facebookをつまらないと言うのは、自分の友だちをつまらないと言っているのと同じ、と思っていたが、今感じるのは、SNSの友だちがつまらないわけではなく、友だちがSNSをつまらないと思っているのだ。みんな投稿することにも閲覧することにも惓んでいる。

Instagramを見るのがつまらないなら、自分が興味持っていたはずの人や物事に興味を持てなくなったということだ。
発信する意味を見出せないなら、ツールの良し悪しよりも何よりも、自分が変わったのだ。10年も続けていたら、それはいろんなことが変わる。

べつの友だちも、投稿に意味を見出せなくなったということで、投稿が滞りがちだ。でも、話を聞いてわかった。それは多分、わたしが20年くらい毎日のようにしていたパンの投稿をほとんどしなくなった理由と近いかもしれない。必要を感じなくなったのだ。

いずれにしても、誰に対して何をどう伝えたいのかがわからなくなってきたら、書けない。
あるいは、ちゃんと伝えようとしたらそれなりの時間を要する一仕事になるから、軽い気持ちで投稿できなくなる。

友だちに共通する症状がある。

こんな(オシャレな)ところへ行きました。
こんな(オシャレな)ものを食べました。

という投稿に「で?」と思って引いて見てしまうという症状だ。他者が投稿したものならまだいい。自分が投稿しようとして、それが「オシャレ」っぽいことだと、自分が自分に対して引いてしまうのだ。

わざと書いたが、カタカナにしたくないので「お洒落」としよう。お洒落とは何か。お洒落はもはや、かつてのお洒落ではないのか。言葉としての意味をなさなくなってきているのか。

お洒落とは、洗練されたさま、またはそうしようと気をつかうさまだが、SNSで大衆に対して洗練されて見えるようにするという行為は、どうしても陳腐な感じになってしまうのではないか。それは、Instagramの功罪といえるだろうか。

こんなところでこんなことをしているオシャレな自分、オシャレに見られたい自分、オシャレに見えるように演出する自分、オシャレに見えるように演出していることがわからないように演出する自分。頑張れば頑張るほど、それはあまりお洒落じゃない自分となっていく。

でも、どう見られようと結局は、伝えたいことがあれば続けられる。自意識を含めてものの見方をもう少しシンプルにしてみる。

わたしが友だちと話した後に考えたのは、1998年以降毎日のように何かしらwebに上げている自分の一貫性だった。わたしにはずっと伝えたいことがあって、それはいまも続いているのだった。そのことは前にも書いたかもしれない。最近Threadsに書いたことをまとめると次のようになる。

80年代、いいなぁと思うことを友達にシェアした。といっても、当時は直接話した。
映画や本のこと、素敵なお店のこと、旅のこと、おいしいもののこと、誰かの洒落たふるまいのことを。
90年代の終わり、ブログのサービスなどまだない頃、ホームページを立ち上げて、そこで毎日のように発信した。目の前が真っ暗になるような体験をして、そこから立ち直るために、日々はこんなにも小さな幸せに溢れていると、世界に向かってつぶやこうと思ったのだ。Sound of MusicのMy Favorite Thingsさながらに、好きなものや気に入っていることを列挙するように毎日書きつけていったのだ。それがあるから大丈夫、と思えたものたちは、いまもワールドワイドウェブの宇宙にひっそりと漂っている。

伝えることは自分の小さな幸せだけではなく、いつしかそれをかたちづくっている、職人さんの仕事(たとえば小さなパンひとつ)の尊さだったりもした。それらがなくならないように、発信は応援する気持ちで、こんないいものがあるよ、と世界に伝えることにつながっていった。

2010年代、またしても人生の岐路に立ち、自分が生きていることだけでも奇跡なのだと思うようになった。身のまわりの感謝すべきこととともに、自分だからこそ伝えられることを、誰かの何かいいことのきっかけになるように伝えることに努めた。

そして現在。わたし自身はさほど変わらないが、いま、どの媒体で何を伝えるか考えている。それが年齢からくるものなのか、世の動きなのかはわからない。

そんなことをThreadsに書いていた。

考えてみればツールはなんであっても構わなかった。わたしは表現者として、Instagram的なものをお洒落だろうがそうでなかろうが、自分のためにずっと続けてきたのだった。ほかならぬこの自分のために。

タイトル上の写真は虎屋の桜餅。花びらは家の前のソメイヨシノからこぼれおちたもの。花びらを散らすのは陳腐だろうか。そのような仕事を、80年代にアルバイトしていた銀座の広告代理店の撮影で眺めていた。いまはプロでなくても花びらを散らし、スタイリングして撮影をする。ものを売るわけでもないのに。それはおかしなことだろうか。
餡の感じが、砂糖の質が、虎屋ならではだといつも思う。街の和菓子屋さんが次々閉業している。わたしはあちこちで、失われてはならないものに自分の一票を投じるという小さな活動をしている。それとともに、失われてはならない貴重なものと共にあった時間を記録している。それは小さな活動だが、未来の自分を元気づける。

この記事が参加している募集

習慣にしていること

今こんな気分

サポートしていただいたら、noteに書く記事の取材経費にしたいと思います。よろしくお願いいたします。