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18歳のときのぼくに伝えたい

西澤姐さんは、現在の「炭火割烹 蔓ききょう」さんをはじめられる前、祇園四条駅からすぐ近くにあるカウンター8席だけのとても小さな鶏料理専門店「うずら屋」さんで料理長をされていた。

こちらは現在、姐さんのお弟子さんだった大島さんが店主となられ、かなりこだわりのある食材を使い、独創的で美味しい鶏料理をお手頃な価格でいただける。姐さんに鍛えられただけあって、大島さんのお料理もとても美味しい。

うずら屋さん

姐さんのキャリアをさらに遡ると、うずら屋さん以前には京都の北区で小さな料理屋さんを営んでられた。ここがなんと、ぼくが住んでいた部屋から目と鼻の先ほどの距離だったのだけれど、当時はそんな凄腕の料理屋さんがあるとは知らなかった。

2004年8月のある日、田鶴さん(昨日書いた京野菜の生産者さん)がパンを買いにこられた際にご挨拶をすると、「今度、三國さんが京都にこられるけど、一緒に食事せえへんか?三國さんのファンなんやろ」と声をかけていただいた。
ぶっきらぼうな口調ではあるけれど、「気は優しく力持ち」な田鶴さんの粋な計らいだった。さすが「三國さんが京都にこられたときは、(田鶴さんが)ボディガードや」と豪快に笑われていた仲である。

それにしてもまさか、あの三國さんと食事をご一緒できる日が来るなんて。
18歳のときのぼくに「そのままがんばっていれば、必ず良いことがあるよ」と、伝えてやりたい気持ちになった。

迎えた会食の日。ぼくはサインをもらうため、2冊の料理写真集と買ったばかりのマッキー(マジック)を握り締め、お店へ向かった。
1冊は、もちろん「皿の上に、僕がある。」
もう1冊は、オテル・ドゥ・ミクニが10周年を機に大改装をされたタイミングで製作され、1996年に刊行された2冊目の料理写真集「C’est Mikumi 僕のおいしさ」。
そして、この会食の場が姐さんの営んでられた小さな料理屋さんだった。

お店へ入ると、姐さんはカウンターの中で手際よく料理をされていて、カウンターには三國さんと田鶴さん、そして京都の老舗フランス料理店「エヴァンタイユ」の森谷シェフも同席されていた。
緊張するなと言われても到底無理な状況である。
意を決して正直に書くと、姐さんには申し訳ないけれどこのとき何をいただいたのか、まったく記憶にない。それどころか皆さんと結構話をした覚えはあるけれど、何を話したのかもこれまたまったく頭に残っていない。それほど、ぼくは緊張をした。
それでも唯一鮮明に覚えているのはサインをいただいた際、「皿の上に、僕がある。」を目にされた三國さんが笑いながら言われた、このひと言だけだった。

「まだ、これ持っている人いるんだ。サインしたら中古で売るときに値段が下がるんじゃないの。本当にサインしていいの?」

つづく

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