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多作は才能に勝る

知人に、とても多才な人がいる。ジャンルに捉われず、次から次へと新しいものを考えては生み出し形にされている。
昔、そんな彼と食事をした際に尋ねてみたことがあった。

どうして、そんなに次から次へと新しいことをされるんですか?

才能に勝つためには多作。多作こそ成功への道。
うろ覚えだけれど、そんな返答だった記憶がある。そしてそれが唯一、彼が師と仰ぐ人の言葉であり教えだったと話してくれた。
そのときには、そういうものなのか、程度の感想だったけれど今ではなるほど、と思えるようになった。

考えてみれば、世に天才と認識されているエジソンやピカソ、ゴッホ、モーツァルトたちも多作であったことは有名だし、そういえば以前、作詞家の秋元康さんもご自身のことをテレビでそう話されていた覚えがある。

先述の「天才=生まれ持った天性の才能」か否かはさておき、彼らが一般的に言われる天才という括りに属するのは間違いない。モーツァルトは絶対音感があったかもしれないし。
けれど一方で、もし彼らが多作の人でなかったとしたら・・・と考える。
ひょっとすると、現在のように日の目を見ることや歴史に名を残す偉人にならなかった可能性もあるのではないか、と思えてくる。

そう考えると一般的に天才と呼ばれたり一流とされる人の才能とは、描き続ける、書き続ける、創作し続けるといった「続ける」能力のことなのではないか。
無論それだけで天才や一流になれるわけでもなく、そこに学習や改善、創意工夫など正しい方向への努力は必要だろうし、その上で神様から選ばれしものが天才と呼ばれる人になったのだろう。
いずれにしても大前提として、「続ける」才能は必須だったのだと思う。

天才っぽい人が口にしそうなセリフに、「降りてきた」「降ってきた」「閃いた」というのがある。言っていることは、きっと本当なんだろう。それこそ何の知識や経験がないにもかかわらず、突然「降りてきた」という人がいれば、きっとそれは本物の天才に違いない。
けれど、実際にはその人がそれまでに見聞きしたり経験を積んできた下地、引き出しがあってこその「降りてきた」というセリフであることがほとんどだと思っている。

これは、以前書いた「運」の話に似ている。

漠然と「運」を待っていても自分にまわってくることは、おそらくない。
ぼくの知る限り、運を味方にしている人はどんな職種であれ、それがいつやってきてもいいように普段から準備をされている。

「運が良かった」

おそらく世の大半は凡人で、本当の天才は5%もいないだろうと思っている。
ま、知らんけどなテキトーな数字なんだけれど。

ただ、続ける才能というのは、凡人であってもその人次第で備え得ることが可能な能力でもある。特に技術職である職人さんなら、どれだけ理論を教科書や言葉で学んでも実際に経験をしないと身に付かないことや、それを積むことで技術が熟練していくことも体感や経験則として知っているはず。

これも先述の話と同じこと。

インターネットのおかげで、いろんな情報などを何処にいても誰もが容易に知り得るようになった。
(中略)

仕事に限らず、実際には言葉や情報だけでは理解しきれないもの、そこで体感や経験をしなければ本当にはわからないこと、得られないことはたくさんある。

それは機会損失だと思う

そして多作もまた、ヒットや高評価を生むための王道の方法であり、神様から凡人にも与えられた能力で、それは才能さえ凌駕する可能性を秘めた手段なんだと思う。

結局これも「やってみなはれ、やらなわからしまへんで」ということだろうし、付け加えるなら、きっとこれだな。

「続けてみなはれ、続けな何が当たるかわからしまへんで」



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