見出し画像

「運が良かった」

こう話される人は、「そこらへんの経営者さん」も書かれていたように、

「運」は、自分の力で発生させることはできない。
しかし、「運」を掴む確率を上げることはできる。

経営者と「運」

と、いうことを直感や経験則から知っている。
漠然と「運」を待っていても自分にまわってくることは、おそらくない。

ぼくの知る限り、運を味方にしている人はどんな職種であれ、それがいつやってきてもいいように普段から準備をされている。
以前からぼくは「準備のないところへ運はやってこない」と、ずっと思っていたけれど、そうでもないのかな、とも思うようになった。

その規模を問わなければ、運そのものはやるべきことをある程度の期間継続していれば、誰にでもやってきている気はする。それに気づくのも準備をしていた人で、そうでない人は見落としているだけ、あるいは気づいていても些細なことと、取り合ってこなかったのだと思う。

ぼくの経験でいえば、いきなり大きな運が巡ってくることはほぼなく、小さな運を積み重ねた先に大きな運が待っていることの方が多い。

人生において大きなチャンスがやってきたときというのは伸るか反るかの重要な局面で、その選択によっては会社やお店、その人自身のその後の人生も大きく変わることになる。
(中略)
だからぼくはこれまでそういった局面では、やってみる方を選んできた。
アントニオ猪木さんも「踏み出せばその一足が道となる。 迷わずに行けよ、行けばわかるさ」と言っていたし、もし行った先に想定外の困難があったとしても(必ずある)行ってしまった以上どうにかするしかないわけで、ぼく自身これまでそうしてやってきた。

諸行無常の響きあり

ぼくはサーフィンをやらないので「知らんけど」な例えになるけれど、仮に「運」を波だとする。
大きな波がきたとき躊躇せず乗るために小さな波で練習する人がいる一方、「この波は小さいから」「この波は大きすぎるから」と、乗らない(できない)理由を探す人や、中には波に気づいていない人さえいる。

それでも大きな波に乗った人を目の当たりにすると、「ぼくも乗りたい」「乗ろうと思えば、ぼくにも乗れる」「次に大きな波がきたときには」と往々にして、たらればを口にするようになる。

人生は有限であり、その中で現役である時間は、やりたいことが多い人ほど短い。そして、その間に自分に都合の良い波が何度もくるなんてこともおそらくない。だからこそ、いざ波がきたときのために普段からの準備や一期一会の心持ちが大切になる。また、できない理由を考え躊躇している間にも波は消えてしまう。
状況が許すならまず乗って、後のことは都度対応すればいい。

それに「運が良かった」というのは、振り返ったときの言葉で結果論だと思っている。大きな波にのったものの、それが原因で大怪我をする可能性だってある。そうなれば「運が悪かった」と言うことになるかもしれない。
同じ波であったとしても乗る人の準備や覚悟、その後の努力次第で、運が良いか否かだって変わることになる。

運を感知する嗅覚やそれを掴み取る準備も必要だけれど、まだその先にはそこへ飛び込む勇気と結果を出すための努力が、別途必要になる。
これらを経験してきた人たちが自身のことを振り返った際に出るのが、「運が良かった」という言葉で、そこには無事乗り越えることができたという安堵も内包されている。
ぼくは経営者や職人さんの「運が良かった」しか知らないけれど、きっとこれはいろんな職業の人に当てはまる。

「やります」「やりたいです」という人は大勢いるけれど、本当にやる人は意外と少ない。
結局のところ、本当にやった人でないと「運が良かった」と思えるところまでいけないだろうし、その言葉も出てこないと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?