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それは機会損失だと思う

ぼくに郷土愛や土地への執着心が欠落していることは先に述べた通り。
これは共感を得られることもほぼないと思うし、感情的にも決して褒められる類いのものでないこともぼく自身わかっている。
どこの出身であれ地元愛や郷土愛に溢れている人の方が圧倒的に多く、そういった話の方が共感を得やすいとも思う。なんなら関西人意識が希薄なぼくなんて、これが江戸時代なら関西人の風上にもおけない不届き者として、市中引き回しの刑で関西中を引き回され連行されるんじゃないかとさえ思う。

でも誤解ないよう先に述べておくと、ぼくは東京も東京の人も大好きだけれど、それは「東京が好き=関西が嫌い」「東京の人が好き=関西の人が嫌い」ではないし、そんな二項対立の話ではない。

そこで今回は、そんなぼくが考える土地に対する執着がないからこその良い側面と、逆に執着あるがゆえの弊害と思うことについて綴ってみる。

「ずっーと、京都なんでしょ。東京の大学に行ってみたいとか、就職は京都から出てみたいとか、思わなかったの?」

「めっちゃ東京へ遊びに行きたいとは思いますが、京都から出ようとはまったく思いません。京都が大好きですから」

何人かの子に訊いてみたけれど、みんな同じような感じだった。生まれ育った場所というのは、おしなべてそういうものなんだろうな、と思う。

(中略)

東京や大阪、京都、神戸など、情報や娯楽も含め文化的な面で一定以上満たされた環境で育った人たちは、そこで暮らしていて不自由を感じることもないから特に地元を出る理由もないんだろうな、と思う。

郷土偏愛主義

これは先日述べた、アルバイトをしてくれていた生粋の京都人である大学生との会話である。
慣れ親しんだ土地や満たされた環境という勝手知ったるコミュニティの中で生きてゆくことは、それほど不自由を感じることもなければ安心感も大きいに違いない。それは、ぼくからすればそこで生まれた運の良さを感じさせるし、幸せなことだとも思う。けれど一方で、それゆえ精神的に「土地や環境に縛られる」弊害もあるんじゃないか、という気もしている。

インターネットのおかげで、いろんな情報などを何処にいても誰もが容易に知り得るようになった。そういった面では都会と地方の格差もそれほど感じなくなり、対面でないと成立しない仕事でもなければ職種によっては場所も選ばずできるようにもなった。
もちろんこれはこれで革新的な大発明に違いないけれど、でもそれは言葉や情報として理解できるようになったに過ぎない気がする。言い方を変えれば、知識として頭では理解できるようにはなった、でもそれが現在ある技術の限界なんだとも思う。
仕事に限らず、実際には言葉や情報だけでは理解しきれないもの、そこで体感や経験をしなければ本当にはわからないこと、得られないことはたくさんある。

つまり、ぼくがここで何を述べようとしているのかといえば、地元愛の強い人はそれゆえに土地や環境に縛られ、未知の経験や体験、出会いなどに触れる機会を損失している側面もあるのではないか、というお話である。

つづく


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