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りんご飴と血の惨劇

物騒なのか、なんだかよくわからないタイトルである。

ぼくは、りんご飴を目にすると未だに悪夢のような記憶がよみがえる。
確か、中学生のとき。ぼくは友人3人と日中から祭りへと向かった。特段祭りが好きだというわけでもないけれど、地元には他にこれといった娯楽もなかったので祭りがあるときには、いつも男友達と誘い合い行っていた。

カッコいい同級生らは祭りへ行くと、そこでばったり会った同学年の女子たちとキャッ、キャッと楽しそうな姿を目撃することもあったけれど、そういった属性になかったぼくは、何が楽しくて祭りに行くのか自分自身よくわからなかった。
それどころか少し前に書いたように、80年代前半といえば不良少年や校内暴力全盛の時代であり、いまからは考えられないほどひどく暗い時代でもある。だから祭りとゲームセンターへ赴くときには、いつも「他校の生徒に絡まれるかもしれない」という緊張を伴った。

かくして、ぼくらはそういった事態に備え防衛策を考える。といってもお小遣いすべてを財布には入れず、左右の靴下や靴の中へ分散させ隠し持っておく程度の、いわゆるリスクヘッジである。
しかし考えてみれば、女子たちとのキャッ、キャッと楽しい時間の可能性があるなら多少のリスクもいとわないけれど、それがないぼくらが祭りへ行くのは余りにもリスクリターンの合わない行動だった。

この話の流れだと、タイトルから「他校の生徒に絡まれ、惨劇に・・・」と想像される向きもあろうかと思うけれど、残念ながらそういった話ではない。

昔は祭りへ行くと、なぜかいつもりんご飴を買っていた。正直、美味しいと思ったこともない。
一般的に「赤」は食欲を増幅させる色とされるけれど、大人になったいまではあの色粉による毒々しい赤はむしろ食指が動かないし、あれほど単調な味を飽きずに最後まで食べられる自信もない。若いころ、それでも行くたびに買っていたのは、そこはかとなく祭りへ行く理由がほしかったのだと思う。

ぼくらはりんご飴を買うと、何をするでもなく時間だけをつぶし帰路についた。
自転車のハンドルに両肘をのせ、猫背でりんご飴を食べながら走るという行儀の悪さ。別に悪ぶっていたというわけでもない。インターネットもない時代、時間だけは無駄にあるけれど、これといった刺激や楽しみもなければ、退屈でどこか空虚な日々だった。そんな思春期にありがちな気だるさが普段の態度にも現れていたのだと思う。
それにしても行儀が悪すぎる。
そんなぼくに、思いも寄らぬ形でバチが当たることになる。

歩道を走っていると向かいから人がやってきたので、ぼくは段差のある道路へと降りた。直後、痛いと感じただけで何が起こったのかわからなかった。
すぐに自転車を停めるとポタポタでなくボタボタと血が流れ落ち、持っていたりんご飴はもう色粉で赤いのか、血で赤くなっているのかすらわからなくなっていた。
何が起こったのかといえば、歩道から降りた勢いで持ち手である割り箸がりんご飴を貫通し、その先がぼくの鼻の穴に刺さった。つまり鼻血である。
この上なくカッコ悪く恥ずかしかったはずだけれど、あまりにも流れ落ちる鼻血に怖くなったぼくが友人らに目をやると、声を殺して笑っていた。

子どもは残酷である。

状況を考えれば滑稽でしかなく、ぼく自身鼻血を流しながら自嘲するしかなかった。
帰路につく途中、友人らがあえてそのことに触れないようにしている気がして、なんだかとても居心地の悪い気持ちになったことを憶えている。
どうにか家に着き、しばらくすると鼻血も止まり大事に至ることはなかった。

当たり前だけれど自業自得であり、あり体にいえば「男子ってバカよね」というだけの話である。こんなことを長々と書いておきながらなんだけれど、何の学びもない、まぁ与太話ではあるけれど実話である。

自転車は正しく乗りましょう。



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