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自分の「好き」は抑制的じゃないと鬱陶しい —— 読書記録 『牛天神—損料屋喜八郎始末控え』 山本一力

 観るでもなくTVをつけたままにして小説を読んでいたら、唐突にマーサ&バンデラスの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」が流れ始めた。NHKの「名曲アルバム」だった。
 クラシックだけじゃなく、モータウンまで取り上げるようになったのかとNHKの変わりようにも驚いたけれど、それよりも先に音楽が入ってくる。モータウンの最盛期の大ヒット曲だったオリジナル版ではなく、デヴィッド・ボウイとミック・ジャガーがカヴァーしたバージョンの方が頭に浮かんでしまうのは仕方がない。好きというのはそういうことなのだ。

 さて、前振りが済んだところでようやく山本一力である。
 オール讀物の新人賞を受賞したデビュー作の『蒼龍』や、直木賞を受賞した『あかね雲』を読んだときには、これでしばらくは時代小説に困ることはないなと安心したものだった。
 だが作品数が増えるにつれて物語のエンディングがパターン化したように感じてしまって、読むのをやめてしまっていた。
 この「損料屋喜八郎」は今でいうリース業の主を主人公にしたシリーズで、2作目くらいまではエンターテインメントとして面白く読めていたのだが、この作品は「山本一力パターン」に陥ってしまっていて、やはり途中で放り出してしまった。

 ここでいうパターンというのはオチのことではない。
 水戸黄門や必殺仕掛人、暴れん坊将軍と、大抵の時代劇は安心安全の絶対的パターンがある。だが山本一力の小説に同じようなパターンがあるわけではない。パターン化しているのは読み終えた直後の余韻だ。
 通常の小説にありがちな葛藤や成長のことは先日、別の記事で触れた。

 読む側の独善で言えば、小説を読む醍醐味にはカタルシスは欠かせないという気持ちがある。逆境に見舞われた主人公が逆境を跳ね返し、自己の抱える問題を克服・成長すると共に、クライマックスに向けて大逆転をしていく。読者は主人公に寄り添い、感情移入しつつクライマックスを迎えて主人公の起した逆転劇に満足するわけだ。

 山本一力の小説はその抑揚が少ないというか、「みなまで言わず」「推して知るべし」みたいなところで終わることが多い。
 「あとは書かなくてもわかるよね」という考えというより、「江戸時代の恰好良さ、粋で鯔背いなせな感じってのはこういうことなんだよ」と言いたくて仕方がない感じが伝わってしまうのだ。

 本作でも「江戸っ子ってのはさあ」という大好きな江戸の頃をニコニコしながら自慢したくて仕方がないような、そういう熱が伝わってきてしまう。読んでいる側にすれば鬱陶しかったり、余計なお世話だったり、暑苦しかったりするわけで、そこらへんが僕が途中で投げ出した最大の原因なのだった。

 自分が好きなことを書くのは楽しいし、どれだけでも書いていられるけれど(例えば僕が昔のロック・ミュージックやパンクについて書くときなど)、物語の中で自分の好きをあからさまにプッシュしてくるのはどうもよろしくない。
 好きな何かについてのエッセイなら、読む読まないの選択があるだけで何とも思わないのだが、物語全体に渡って「いいでしょ、いいでしょ」と推してくると途端に鬱陶しくなる。
 自分の好きなものについては隠そうとしても隠せないのだから、自覚以上に抑制的でなければならない、というのが途中で放り出した本作から学んだことなのでした。

 いや、でも↓このデヴィッド・ボウイとミック・ジャガー、まだ40代の前半の頃だったはずで、信じられないくらい安いコストで、超特急で作ったPVのはずなのに、やっぱり恰好いいんだよなあ。


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