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憧れと使いやすさの相反 | Jul.1

これまで万年筆を常用したことがない。
メモであれ、手帳であれ、大抵はボールペンで書いてきた。
憧れはあるものの、書くときの手癖が悪いのか、万年筆との相性が悪いのか、スラスラと書けたことがなくて、敬遠したままいまに至っている。

銀座のイトーヤで高級万年筆をガラス越しに見ている客が「万年筆ならモンブランだよなあ」と呟くのを聞いたことがある。
その呟く雰囲気が「やっぱりカメラはライカだよなあ」と言っているのと同じように聞こえたのだった。

ライカは確かに見事なカメラだけれど、ライカを使えばどんな写真でも撮れるようになるわけではない。誰にとっても使い勝手の良いカメラではないのだ。
ウチにもバルナックが1台とM型のライカが1台あったけれど、M型は今ひとつしっくりこなくて、売ってしまった。
「自分の生まれ年のライカなんてそうそう巡り会わないんだから」とも言われたが、使わないカメラはただの金属でしかない。
きっと世の中には僕よりこのカメラを大切に使う人がいるだろうと、後ろ髪の1本すら引かれることなく、あっさり処分してしまった。

物に対する執着心が希薄なのではなく、どうしてもその物が持っている美しさや貴重さよりも、実際に使う道具としての能力に目がいってしまうのだ。
同じ理由で、モンブランの万年筆がどれだけ精緻に作られた美しいものであったとしても、僕にとって書きやすい筆記用具でなければ、使う意味が見出せない。
その結果として、ビックのボールペンやゼブラの水性ボールペン、三菱の5Bの鉛筆に軍配が上がってしまう。

昔であれば、「モンブランで原稿を書くのが作家の証」とでもいうような不文律、暗黙のデファクトスタンダードがあったのかもしれない。
だが、道具がこれだけ発達したいま、それでも万年筆を使うのは、愛好の意味が大半なのではないか。モンブランを使えば誰もが迷うことなく物語を紡ぎ出せるなら、こんなに素晴らしいことはないが、現実はそう甘くはいかない。

写真でも想像することがあるのだけれど、ロバート・キャパやカルティエ・ブレッソンたちの全盛期にデジタルカメラがあったら、彼らは迷うことなく使ったんじゃないか。
漱石や太宰がパソコンやネットを使えたら、彼らもきっと「こりゃ便利だ」と使いまくったに違いない。

何かの展示で、池波正太郎さんの書斎を再現したのを見たことがある。
机の上には原稿用紙と極太のモンブランとペリカンの万年筆がおかれていた。
剣客商売の直筆原稿はブルーブラックのインク、太字で書かれている。
きっと紙にそっと乗せるだけでインクが出てくるような、手入れの行き届いた万年筆を使っていたのだろう。
一瞬、万年筆で原稿を書くことに憧れたが、現実に手書きの原稿を書く機会などそうそうはない。好んで使うこともないだろう。

こうして万年筆を使う機会は失われたまま、きっとこの先も続いて行くのである。

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