音楽の遍歴を書くことに意義はあるか
ここ数日、ちょっとだけ体調が下降気味で、近所以外に出かけることもせず、おとなしく過ごしていた。
無理のきかない体になってしまって以降、何かと言えばすぐに「勇気ある撤退」を繰り出すのだが、元々が無理を承知で突っ込んでみるタイプだったので、精神衛生的には決してよろしくない。どうしたって身の安全と精神の安全をトレードオフしているような気分になってしまう。
あれこれと試す中、安全な撤退を行うための殿として音楽が適役かもしれないと思うようになった。それも新しい音楽ではなく、まだ青臭いティーンエージャーだった頃に聞いた音楽だ。
小説は成長とともに読むものが変わっていくけれど、音楽は10代の頃に聴いたものは一生ついて回るというようなことを以前書いた。
好みが変わらないわけではないのだろうが、10代の頃に聴いた音楽は、その当時に目にした光景や出来事と密接に結びついて、何歳になっても、どこにいたとしても、瞬時に時間を遡ることができる機能があるように思えてならない。ただ懐かしむのではなくて、聴覚には記憶中枢をダイレクトに刺激するような作用が他の感覚よりも強くあるような気がするのだ。
僕が高校生だった頃は洋楽全盛のポップな時代だった。
テレビCMにもマイケル・ジャクソンやマドンナが当たり前に出演していて、それを特段すごいとも不思議とも思わなかった(それだけ日本の企業が金を持っていたという証左でもあるのだが)。
いわば身の回りに当たり前に音楽があり、僕はその中でロック・ミュージックやポップ・ミュージックを聴いていたというだけのことだ。
ローリング・ストーンズの大ファンである小説家の山川健一さんが、90年代の初頭にローリング・ストーンズを評して「心に効く爆薬」と書いていたのを今もよく覚えている。
当時、浴びるように聴いていた音楽はかつての未成熟なちっぽけな少年だった自分を思い出させるだけじゃなくて、無茶と無理の区別もつけられないくせに、全力で背伸びをしていたときの気持ちを蘇らせてくれる。それは時に励ましになり、時には反抗を期待する嘲笑になる。それを指して「心に効く爆薬」というのなら、これほど確かな形容もない。音楽は起爆剤にも導火線にもなる。
残念ながら音楽は世代の壁をなかなか越えられない。
どこまでも同時代的で、時代に並走するランナーであることが多くて、よほど趣味が合う人でないと、年齢の違う人同士の会話で音楽が共通言語にはなりにくい現実がある。
noteでも音楽の記事を書いている人は少なくないが、想像するに読んで楽しめるのは同世代かつ同好の士であることがほとんどだろう。特にロック・ミュージックなどでは。
FMラジオで耳にした曲を雑誌のオンエアリストで調べ、中古レコード屋でLPレコードの山から探し出していた頃と比べたら、聴いたことのない音楽と接点の持ち方も随分変わった。
そんな社会構造の変化を十分に理解した上で(ある意味では理解されないという前提を是認した上で)、僕という一人の人間のアウトラインを形作る一助になってきた音楽について書かないままで良いのだろうかと思い始めている。
レビューするとか、誰かに古い音楽を提示するとか、新たな接点を一つ増やそうだなんて高尚なことではない。
単純に自分の過去を記憶から引っ張り出して、外に置いて見ることは、自分を客観視するためにも必要なことなのではないかと考えるようになったのだ。
ミュージシャンの名前や曲名、アルバムのタイトル、イクイップメントのメーカー名等々、とかく音楽は固有名詞のオンパレードになる。
ただでさえ受け取りにくい話をあえて書く必要があるのかと思わないでもない。でも外に出さなきゃいずれは消え去るだけなのだ。だったら元直情径行の人間らしく、構わず書いてしまうに限る。
弱々しく部屋の中でぼんやりしながら、半日近く音楽聴きまくった挙句、そんなことを思いついたのだった。
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