見出し画像

2月:いつの間にかあなたのためにクッキーを【短編小説】1300文字

「お疲れ様です。どうぞこちらにおかけください」
怪我人の手当てをするわけでも、ましてや実験をするわけでもないのに、私は白衣を着ている。
10畳程の会議室を借りて、ダイニングテーブルのようにくっつけた机の上には薄い水色のテーブルクロスをかけている。
邪魔にならないように飾られた花は今朝買ってきたピンク色のガーベラだ。

「お疲れ様です。よろしくお願いします」
彼が椅子を引いて座ったので、電気ケトルで沸かしておいたお湯をティーカップに注いだ。
「ストレートでいいですか?今日のクッキーは四種類あるんです」
「おぉ、美味しそうです!もう仕事の山場は越えたから喜ばしいのに、ここに来ることができなくなるのは残念ですよ」
彼はクッキーを一枚口にして、ちょっと大げさな感じで頷きながら微笑んでくれた。

彼は3ヶ月間にわたって長時間残業が続いたため、私との面談にピックアップされ、数ヶ月前からこうして会っている。
彼との話は、現在の業務内容、職場の人間関係が中心で、私生活については少し触れるだけだ。
彼は他の面談対象者とは違って問題を抱えているわけではなく、初めて任された大きな仕事に全力で取り組んでいた結果、残業時間が規定をオーバーしてしまったのだ。
私が趣味で作って持って行くクッキーを彼はいつも褒めてくれるので、面談最後となる今日は張り切っていつもより気持ちを込めて作ってしまった。

バターではなく、オイルで作るクッキー。
バターを常温で柔らかくして練ることも、粉類を振るうことも、作った生地を冷蔵庫で休ませる時間も必要ない。
ボウルと大さじ一つで作ることができる。
1種類焼いている間に違う種類の生地を作っていく。
アーモンドプールとクラッシュアーモンドのクッキー。
ココアパウダーとココナッツのクッキー。
きなことざらめのクッキー。
色味が欲しくて作った青汁のクッキー。
小麦粉と一緒に片栗粉を入れると、オイルなのに固くならずサクッとホロッと口の中で砕けていく。
いつもと違うこのクッキーも彼は気に入ってくれたようで、紅茶を一口飲んで、また一枚口に入れて笑みがこぼれた。

「お仕事、落ち着いたようでよかったですね。また山場が来ることはありますか?」
当たり障りのないマニュアルの質問だが、深読みすると次に会える日を待っているように聞こえてしまわないか、聞いた後に考えて、焦った。
「・・・当面はないですよ。やっぱり残念です」
視線を彼に奪われる。
前回とは違う細いフレームの眼鏡。やっと度数を見直せたのかな。
ちゃんと毎回ハンガーにかけて、整えられているようなスーツ。
きりっと結ばれた薄桃色の春色ネクタイ。
これまでも顔色が悪いようなことはなかったけれど、今日は一段と血色がよく見えた。

「もっと一緒にいたいんだけど」
彼はクッキーを一枚つまんで、私のくちびるにそっと近づけた。
薄っすら開けた口にクッキーが差し出され、彼の指が私のくちびるに触れる。
もっと・・・!
私は目を閉じた。

産業医という立場を思い起こし、目を開き、横に置いてあったパソコンの画面を強く見つめる。
「再来月からは育休の予定ですね。奥さんと子育て、がんばってください」
先に出会っていればという思いはないけれど、次の産業医面談日にいつものようにクッキーを焼いてこれるか、今はわからない。

この記事が参加している募集

レシピでつくってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?