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レオナルド・ダ・ヴィンチから学ぶ「写真とはなにか」

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)といえば人類史上もっとも偉大な芸術家であり、さらにあらゆる分野に精通した万能の天才と言われる、とにかくスゴイ人です。

そのレオナルド・ダ・ヴィンチが「写真とは何か?」についてかなり本質的なことを述べいるのですが、それを紹介しながら考察しようと思うのです。

いやもちろん、レオナルド・ダ・ヴィンチが生きた時代に「写真」はまだ発明されていません。

しかしヨーロッパでは写真の発明以前にカメラ(カメラ・オブスキュラ)が存在し、レオナルドもこれを利用して絵を描いていたのです。

写真が発明される以前のカメラ・オブスキュラ

さらにレオナルドは現在の光学理論の基礎となる正確な遠近法理論の完成者で、その作品はまさに精密な「手描き写真」と言えるものなのです。

ですからレオナルド・ダ・ヴィンチが書き記した「絵画論」は、そのまま「写真論」に通じていて、しかもかなり本質を突いているのです。

(上記動画を元に記事を書きましたが、実は大幅なアレンジを加えております。書籍化も視野に入れてますので、応援よろしくお願いします!

そのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論は、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』(岩波文庫)に収録されています。

レオナルドは膨大な手記を残しており、なにぶん昔のことなので失われた量も多いらしいのですが、現存するものの一部をまとめたものが岩波文庫で出版されており、上下巻のうちの上巻に「絵画論」が収められているのです。

この本に「絵画と他の芸術との比較」という章があり、この中の特に205ページから絵画と彫刻との違いが述べられているのですが、ここが「写真」にも通じる最も核心に触れられた箇所なのです。

ただしこの岩波文庫版は旧漢字が使われていて普通には読みづらく、しかし私は幸いにも旧漢字が読めますので、超訳して解説します。

レオナルド自身は万能の芸術家として絵画とともに彫刻も制作しましたが、その経験を踏まえて「絵画と彫刻を比較した場合、絵画の方が優れている」と述べているのです。

レオナルドに言わせると、彫刻というのは大理石を掘るにしても非常に体力を使う一方で、立体のモチーフを立体の作品に置き換えるだけで、あまり頭は使わないのです。

これに対して画家は絵筆を動かすだけで体力は使いませんが、そのかわり頭はものすごく使うのです。

なにしろ立体のモチーフを平面に置き換えなければならないのですから、そのための遠近法理論や陰影法、人体構造など膨大な知識が必要なのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの人体解剖図

そして画家はそのような知識をもとに、二次元平面に仮想的な三次元空間が正確に再現されるように、秩序立ててモチーフを描かなければならないのです。

そして私はこれを読んでハタと気づいたのですが、それは自分が「写真が分からない人」だったということについてです。

つまり以前の記事でも書いたように、その昔の私は「現実が立体なのに、なぜ平面の写真を撮らければならないのか」が分からなかったのです。

だから「フォトモ」という写真を立体化した手法を開発したのです。

糸崎公朗による「フォトモ」

ところがレオナルドに言わせると、優れた絵画とは「平面」ではなく「立体」であり、そこが絵画が彫刻よりも優れている点なのです。

そしてこのレオナルドの絵画論は、「手描き写真」としての絵画論であり、ですから現代の「写真」にもそのまま当てはまるのです。

つまり、そもそも写真とは「平面ではなく立体」であり、むしろ「平面なのに立体」なのが写真のスゴイところだったのです。

しかしそうは言っても、現代はレオナルドが生きた時代にから500年以上も経っているのです。

そうすると絵画の基本、ひいては写真の基本も多くの人が忘れれてしまっているように思えるのです。

われわれ現代人にとって、絵画も写真もあまりに当たり前の存在になっていて、「平面なのに立体なのがスゴイ!」という原初的な驚きが、すっかり忘れ去られているのです。

そうしたことを思い出さなければ、私のように「写真が分からない人」になってしまうし、たとえ自分では写真がわかっているつもりの人でも、実は肝心なことをいろいろと忘れてしまっているのかも知れないのです。


というわけで、ここでレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見ていただこうと思いますが、まず『受胎告知』です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』(1472年 - 1475年頃)

こういう昔の絵は、何を見ていいのかよく分からないところがありますが、「平面なのに立体なのがスゴイ!」という観点で見ると、なるほどスゴイいというのが分かってくるのです。

全体の構成を見ると、この絵は左側に天使がいて、右側にマリア様がいて、タイトル通り聖書の受胎告知の場面なのですが、手前の人物から遠くの山並みまでが「深い空間」として描かれている点がまずスゴイのです。

『受胎告知』部分拡大
空気遠近法によって深遠な奥行きが描かれている

次に遠景の山の部分を拡大してみますが、ここにはレオナルドが開発した空気遠近法が使われ、意図的に霞んだように描かれています。

この山並みは海岸になっていて、お城のような建物や、海に浮かぶ船が実に繊細に描かれています。

さらにこの絵は正確なパースペクティブによって描かれていて、マリア様の背後のに描かれた建物の歪みから、現代の写真に置き換えると、けっこうな広角レンズで撮られたように思えるのです。

およそ20mmくらいの超広角のようにも思えますが、そのような「写真的」な目で見ると、絵画にもいろいろな発見があるのです。

ここで参考までに、同じルネッサンス期の画家であるボッティチェッリの『プリマヴェーラ(春)』を見てみます。

サンドロ・ボッティチェッリ『プリマヴェーラ(春)』1482年頃

一見すると『受胎告知』に劣らずリアルな絵ように思えますが、しかし「奥行き」という観点で観ると、人物の背後に樹々が描かれ、その向こうに青空が少し見えていますが、『受胎告知』のような「無限の奥行き」は描かれていないのです。

ですからボッティチェルリは人気のある画家ですが、「平面なのに立体なのがスゴイ!」という絵画の醍醐味としては少し物足りないのです。

このように同じルネサンス期の絵画でも、あらためて比較すると画家によってずいぶんと力量に差があり、だから絵画はおもしろいのです。

さらに同じレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画も、年齢を重ねるほど力量が上がっていくのです。

実は『受胎告知』はレオナルドの初期作で、しかも師匠のヴェロッキオとの合作であり、レオナルドは天使ガブリエルと、遠景の山を担当したのです。

ですのでレオナルドの本当のすごさを知るには、後の時代に描かれた、レオナルドのオリジナル作品を見る必要があるのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』1483〜 1486年

というわけでレオナルド・ダ・ヴィンチ作『岩窟の聖母』を観ていただきますが、レオナルドがヴェロッキオの工房から独立した後、自ら描いた作品です。

『受胎告知』の約十年後に描かれたこの作品は、さらなる立体感と奥行きが表現されており、作品としての完成度が格段に高まっています。

まず人物を見ると、より自然で柔らかな描写となり、生きた人間としてのリアリティーが増しています。

各人物の配置も、全体が三角形をなしながら重なり合うような複雑なものになり、それぞれの位置関係も正確な立体として描かれています。

そして画面全体を見ると、普通の絵なら空を描く部分に重苦しい岩を描き、その下の洞穴の向こう側に奥に深遠な奥行きを描くという、非常に変則的な構成になっているのです。

『岩窟の聖母』部分拡大
洞穴の向こう側に描かれた深遠な奥行き

つまりこの絵は「平面」でありながら「立体造形」としての面白さを追求した作品でもあって、そのための工夫がさまざまに見られるのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495〜1498年

『岩窟の聖母』のさらに約十年後の1495〜1498年に描かれた『最後の晩餐』を見ていただきます。

この絵は修道院の食堂に描かれた壁画ですが、レオナルドがあまりにも「実験的」な描き方をしたので、絵の具の剥離などの損傷が酷いのです。

『最後の晩餐』部分拡大
損傷の激しい絵画だが、正確な立体として描かれているのが分かる

しかし部分を拡大してみると、例えば白布が掛かったテーブルの正面と上面の角度がきっちり90°に見えるように描かれているのです。

テーブルに載せられたお皿も、破綻のない角度と奥行きが正確に描かれています。

そして人物と、その背後の壁面、そして窓の向こうに見える景色との間に、本当にそれだけの距離感があるように描かれているのです。

また窓から差してくる「光」の描写も、実にリアルで美しいのです。

絵画としてこれだけボロボロに痛みながら、なおそれだけの情報量を持つ『最後の晩餐』は、間違いなく天才レオナルドによる名作だと言えるのです。

『受胎告知』部分拡大
立体的な描写としては見劣りする

そう思って『受胎告知』の部分を拡大してみると、思った以上に見劣りするのであらためて驚きます。

マリア様の背後に描かれた建物の壁は「90°に折れ曲がっている」ようにはとて見えませんし、人物や遠景との距離感も曖昧に描かれています。

はじめに『受胎告知』だけを見たときは、確かに「深遠な奥行き」が描かれた作品のように思えたのです。

しかし『岩窟の聖母』や『最後の晩餐』と比較するとずいぶん見劣りしてしまうのは、なかなか興味深いことです。

このようにレオナルド・ダ・ヴィンチは「手描き写真」としての写実絵画の、「平面なのに立体なのがスゴイ!」という性質を極限まで追求し、その伝統がヨーロッパで受け継がれていったその先に、「写真術」の発明があり、現代に続く写真の歴史があるのです。

ダゲールによるダゲレオタイプ写真『タンブル大通り』1838〜1839年頃

そもそも以前の記事でも書いたように、世界初の実用写真術であるダゲレオタイプの発明者であるダゲールは画家であり、「ジオラマ劇場」と名付けた映像装置の発明者であり、その意味で絵画の持つ「平面なのに立体なのがスゴイ!」という性質にこだわり抜いた、レオナルド・ダ・ヴィンチの正統な後継者であったと言えるのです。

そのようなわけで今の時代は、カメラやスマホのシャッターボタンを押すだけで、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたのと同等の立体感を持つ「写真」が撮れるようになったのです。

ところが不思議なことに、写真を撮る人自身に「平面なのに立体なのがスゴイ!」という意識がないと、写真というものは「立体」としても「奥行き」としても写らず、つまり「下手くそな写真」になってしまうのです。

というわけで、その「下手くそな写真」の見本として、私が過去に撮影した初期写真を最後にご覧いただきます(笑)

糸崎公朗の初期写真(2010年)RICOH GXR A12 33mm Macro

これを今あらためて「平面なのに立体なのがスゴイ!」という観点で見るとかなり物足りないものがあるのです。

確かに手間に菜の花があり、遠くにマンションや街並みがあり、それなりの遠近感が、機械的には描写されています。

でもレオナルドの絵画のような「立体造形の面白さ」はありませんし、その意味での奥行きのある空間も写っているとは良い難いのです。

この写真は「写真が分からない」という気持ちのまま何となく撮っただけで、だからその精神が迷いとして写っているのです。

糸崎公朗の初期写真(2010年)RICOH GXR A12 33mm Macro

これも手前に選挙ポスターや電柱などが立っていて、奥にお店が写っており、そうやって言葉で説明する限りでは奥行きを写しているはずなのです。

しかし、構図としては単にゴチャゴチャしているだけで、立体空間としての面白さがまるで写されていないのです。

糸崎公朗の初期写真(2010年)RICOH GXR A12 33mm Macro

我ながら何を撮ろうとしたのかよく分からない写真ですが、この場合の「何を」というのは特定の被写体と言うよりも、「立体造形の面白さ」や「深遠な奥行き」など写真表現ならではの「何を」であって、その意識がなければ単に漠然とした写真にしかならないのです。

つまりカメラとは、レオナルド・ダ・ヴィンチ由来の「正確な遠近法」を「機械的に」写すだけの道具であり、レオナルドが教えてくれた「平面なのに立体なのがスゴイ!」という精神が撮影者になければ、決してそのようには写らないのです。

写真が上手い人とそうでない人の違いも、そうした意識の違いの表れではないかと思うのです。

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