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羅小黒戦記を見たけど面白くなかったと感じた人へ ~特に見る価値はないが、もののけ姫より頑張った点もあるよ~

 家族からの猛烈な勧めがあり、中国のアニメ映画「羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来」を見た。好きだという人には大変申し訳無いが、アニメ作品としてのクオリティは非常に低い。
 ネット等を見ると、ハマっている人もいるようだが、面白くないと感じた人のほうが多いのではないか。今回は、なぜこの作品が面白くないのか、その要因を確認しつつ、それでもなお、考える価値のあるテーマを探っていきたい


1 この作品の良い点

 この作品を現代日本人が好きになるとすれば、「ムゲンがイケメンかっこいい♡」か、「小黒かわいい♡」のどちらかである。このあたりは、一部の女性に突き刺さることはあっても、ほとんどの男性には全くピンとこないのではないだろうか。中国人の声優は非常に上手であった。もっとも、セリフは少ないのだが。

2 アニメ作品としての評価(酷評を読みたくない人は3へ)

 既存の型にはめられたキャラ。どこかで聞いたようなセリフ回し、先の読める展開。物語の構造も、新規性を感じない。
 別にパクリだというわけではない。しかし、我々はすでにジブリや新海誠の作品を見ている。同じ土俵で勝負をするのであれば、それらを想起せずにはいられない(新海誠「星を追う子ども」を見たときのような気分)。比べられてしまうことは避けられないだろう。
 簡単にストーリーを振り返ってみよう。


平成狸合戦ぽんぽこで開幕。黒猫が森林開発の人間に追われる
・一転、現代の都会に。自身を助けた精霊(フーシー)に連れられ、9と4分の3番線から結界に入る。
・結界の中はラピュタ。木の上には、もののけ姫の木霊が(爆笑)
・千と千尋のハク(ムゲン)が襲いかかってくる。戦闘シーンはマトリックスレボリューション
・ムゲンと小黒の交流が延々と続き、小黒は徐々にムゲンに心を開くように。背景美術について、海の作画は簡易だったのに、都会の龍游(北京)に出ると突然、新海誠に
・地下鉄でフーシー一味に襲われる。スパイダーマン2のような格闘
・このあたりで、本作の構造が、もののけ姫のように、人間を倒して自分たちの森を取り戻そうとする過激派精霊(フーシー)と人間と共存派精霊(ムゲン)との争いであることが明らかとなる
・フーシーが小黒の力を手に入れ、新海誠「雲の向こう、約束の場所」の量子塔が蝦夷を飲み込んでいったように、北京の街が異次元に飲み込まれていく
・結界の中でマトリックスレボリューションのような格闘。負けたフーシーは、自決して木に
・小黒は北京の結界内にある精霊隔離施設に入ることを拒み、ムゲンとの旅を選択する
・エンディング曲「嘘」は、千と千尋の神隠しの「いつも何度でも」にしか聞こえない

 以上、だいたい既存の作品の切り貼りで本作の内容を再現できてしまう。
アニメの技術などは詳しくはないが、戦闘シーンが終始飛び回っているのは、地に足をつけて迫力のある戦闘を描くだけの技量を製作者が有さないからではないか。
 本作は、内容、技術ともにあえて見る価値は少ない。もっとも、20年経てばまた状況は変わっているだろう。中国作品の今後と、その時の我々の立ち位置に関する予想については、また機会があれば書いてみたい。
 余談だが、フーシーの日本版の声優は変えたほうが良いのではないか。フシーが悪者だと分かってしまう。

3 映画「もののけ姫」の持つ欠陥

 さて、前章でもののけ姫との類似について触れたが、もう少し掘り下げてみよう。それによりこの作品の最大の論点が明確になる。
 もののけ姫は、「人の手つかずだったシシ神の森を開発し、明から持ち帰った鉄砲と製鉄技術を武器に、戦国の世でユートピア(たたら場)の建造を目指すエボシ一味」「エボシ一味の開発により、森で暮らせなくなりつつあるシシ神の森の精霊たち」死闘を繰り広げる間で、「タタリ神の呪いを受けて村を追放された青年アシタカ」が、両者の共存の道を探りながら奮闘する話である。
 アシタカは作中で「森とたたら場、双方生きる道はないのか?」と問う。荒ぶるシシ神により、エボシ一味の拠点であった「たたら場」は焼け落ち、更地に。若干緑が戻ったシシ神の森をみてエボシは「みんな、はじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう」と言い、終劇。
 映画に勢いがあるため、「自然って大切だよね」みたいな感じでなんとなくきれいに終わった気持ちになるが、実際はそんなに単純な話ではない。もののけ姫の有する葛藤は何も解決されていない
 シシ神の森は、精霊の強さにより普通の武士が手出しできなかった土地である。エボシは、その「だれの領地でもない」という点に目をつけ、新兵器と製鉄技術を武器に拠点を築いたが、たたら場で生産される鉄を狙う周囲の武士(アサノ公方)の脅威にさらされている。エボシは「いい村にしよう」とは言うが、戦国の世において、これからも女性や病人が大切にされるユートピアを守り続けるためには、武士と闘い続ける必要があり、そのためには鉄や兵器を生産し続ける、ひいては大量の砂鉄と燃料を消費し続けなければならないことを意味する。エボシ一味の生存とシシ神の森の精霊の利害対立は何一つ解決していないのである。
 もののけ姫は結局、「森とタタラ場、双方生きる道」を示していない。

4 羅小黒戦記は、「双方生きる道」をどう描いたか

 さて、もののけ姫から20年経って公開された羅小黒戦記は、この問題をどのように扱ったのであろうか。
 ムゲンとフーシーの戦闘で、次のようなやり取りがある。


ムゲン「人間と妖精は共存の道を探すしかない。相手を滅ぼすなんてできない。」
フーシー「『共存』?こそこそ暮らせというのか!」

 このやり取りの結果、フーシーは敗北し、自決する。人間と精霊の共存の道を解くムゲンが勝利するわけだが、その「共存」のあり方はどのようなものか。
 精霊は、人間のテクノロジーを受け入れてスマホなどを使いながら、自分が精霊であることを隠しながらこっそりと北京で働いて暮らしている。それができないものは、結界の中にある館で隔離されて暮らしている。これが本作の勝者が示す「共存」のあり方である。

 もののけ姫で、山犬やイノシシがたたら場でペットとして飼われるようになることが共存か。
 映画マトリックスの世界で、人間と機械は共存しているか。ポケモンの世界で、発電所のマルマインと人間は共存しているか。
 アメリカ先住民族は白人と共存しているか。アイヌは大和民族と共存しているか。自治区のウイグル人は漢民族と共存しているか。

我々はこれを共存とは呼ばない。支配と呼ぶのである。

 そもそも、アジアにおいて「共存」という言葉は血塗られている。大日本帝国は、アジアにおける欧米の支配を脱し、日本を中心としたアジア諸民族が作り上げる「大東亜共栄圏」の樹立を目指し、アジア各国を侵略した。その際に掲げられたスローガンこそが「共存共栄」だ。そのスローガンを、今度は中国共産党が少数民族等に対して用いている。
 「共存」という言葉は、強者にとって非常に好都合な言葉である。

5 現実問題としての共存

 とはいえ、現実問題として、我々は異なる存在とともに生きていくしかない。そのような異なる存在と葛藤が生じた場合においての、一つの対応のあり方を本作は提示している。難しい問題にも関わらず、回答から逃げなかったという点では、もののけ姫よりもがんばっている

 負けてしまったものの、フーシー側の正義にも敬意を払っているあたり、作者が完全にムゲンのあり方を肯定している訳でもなさそうだ。
 また、答えの良し悪しは別として、実際に最もよく採用されている葛藤への解決策でもあろう。
 私自身、「異なる存在とどう生きていくか」という問題に答えは持ち合わせていない。ただ、コードギアス(ブリタニア帝国に支配された日本が独立を目指して闘う話)は好きだし、グアムなどで白人に対してなんとなく卑屈そうにしている先住民の姿を見ると、とても悲しくなるとともに、「それでいいのか」といういらだちを覚える。
 共通のアイデンティティで結ばれた何かしらの集団が誇りを持って生存するためには、自由で、独立している必要がある。そして、異なる存在との間で、生存をかけた葛藤が生じるとき、「共存」などという都合のよい状態は存在しない。結局、私達が自分の生存や尊厳を守るためには、闘争に勝利するしかないのではないかとも思うが、どうだろうか。

以上

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