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自己否定してしまうのは親のせい!?

どんまい!どんまい!

誰だって失敗するときはあるんやで!

大丈夫!

きっと、うちだけやない。

うちだけやないよ・・・



しらんけど。


***

「ミーンミンミンミンミン」
朝からセミの鳴き声がうるさいです。夏らしい朝ですが、あいさつはあくまでも、こんにちは!
大阪・兵庫で活動するファッションセラピストの上杉いとです。

今日のタイトル、気になっちゃいました?

「自己否定してしまうのは親のせい!?」

このタイトルが気になったからタップして、今から続きを読んでやろうじゃないかとスクロールしてるんですよね?



「……ちょ、待てぇい!」
「冒頭、察してちゃんかよ。聞きたくないけど、しゃーなしで聞いたろやないか。」


(ば、バレてる…!)

コホン。

えー、では。聞いてください。
昨日のことなんですけどね、出勤して会社の入り口についてから社員証を忘れたことに気づいたんですよ。(平日は別の仕事もしています。)

うちの会社はセキュリティーゲートがあって、自分の社員証でないと通ることはできないんですね。

ということは、負傷中のこの足を引きずって会社ー自宅間を往復しなくちゃいけなくて・・・・・

引き返す途中で夫の出勤時間とかぶることに気づき、協力要請したら承諾をもらえたので、(地元の最寄駅まで戻る必要はあったけど)駅から遠い自宅までは戻らずにすみました。

はじめての、きょ・お・ど・お・さ・ぎょ・う♡

思い出に残るいい連携プレーができました☆


しかし、会社に着いたときには、全身汗だく。グスングスン。クサイクサイ。汗クサイ。

悲しいのは汗クサイだけじゃありません。社員証を忘れるのは、実は3度目なんです。たった1年で3回もやってしまいました…(学習能力のなさを世界中に露呈)


***

今日のことで気づいたかもしれませんが、わたしは忘れ物が多く、おっちょこちょいでケガもよくする、ひとことで言うと、アホな人です。

子どもの頃からそうなので、昔はよく怒られてました。学校では先生に。家では親に。不思議と会社ではあまり怒られたことないけど。

自己否定の強かったときは、忘れ物やケガをよくしては親に怒られて「わたしがダメな子だからこうなっちゃうんだ…」とシクシク泣いていました。
大きくなると人前で泣くことはなくなりますが、心の中ではずっと自己否定をして、自分のふがいなさを悲しんでいました。

自分が大好き♡な今は、忘れ物をしてしまっても一瞬落ち込んで、「ま、いっか☆」で済ませられています。
人に迷惑をかけるようなことなら改善が必要ですが、困るのが自分だけなら大したことじゃない、「ま、いっか☆」と楽観的に考えられるようになりました。


自己否定のはじまりは幼少期

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夫は、こんなにもおっちょこちょいな性格のわたしを、それもイトの魅力だからと言ってくれています。(ありがたやありがたや。。。)

ですが、わたしの両親は違ったんですよね。

乳幼児の頃から体が弱く、繊細な性質(HSC)だったわたしは、親にとっては小さいときから手のかかる子どもでした。
子どもの中でもイトは病気ばかりして大変だったという話はよく聞かされていましたし、おてんばな性格もあって相当、手を焼いていたのだと思います。

これがひとりっ子ならまぁいいかもしれませんが、わたしは9人兄弟姉妹の5番目真ん中っ子。
一般的に見ても、わたしは体の弱い子どもであり、兄弟姉妹の中でも断トツでしょっちゅう熱を出す、ケガをする子どもだったのです。
家事に育児、仕事で大変だった親にとって、わたしはただただ親に迷惑をかける存在だったのかもしれません。

そもそも、わたしの親は褒めて伸ばすというタイプではありませんでした。わたしの中で最も記憶している親の言葉は、

「おまえが悪い」
「おまえは何もできない」

幼い子どもにとって、親の言葉はすべてです。
褒めるどころか「ダメな子」扱いをしたり、理由も聞かずに一方的に「おまえが悪い」というような人格否定をされ続ければ、「わたしの存在が悪いんだ。わたしは何もできないダメな子なんだ」と思い込むのは当然。こうしてわたしは、自分には何の価値もないと自己否定するようになっていきました。


自己否定は負のスパイラルを招く

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親はいつもわたしの悪いところばかりをあげつらって否定してきました。
「親の目に映っているわたしがすべてじゃない!決めつけないで!!」そうは思っても、幼いわたしにはそれを伝える術をもっていませんでした。

褒められるようなことをしてもぜんぜん褒めてもらえないし、悪いところばかりを取り上げて言われるのなら、もうそれでいいよ、とヤケになって意識的にそのとおりに振舞うようになり、その姿にまた親が人格否定をする・・・まさに負のスパイラルに陥っていました。

また、子どもにとって一番の味方であるはずの親が「イトは迷惑な存在」と思うのなら、赤の他人はもっとそう思うのではないか?
どんなにやさしい先生・友だちであったとしても、内心ではわたしを嫌っている、迷惑がっているのかもしれない…と、どんどん自己否定の思考に支配されていきます。

そのため、誰かに自分の思いを打ち明けたり、相手の本音を知るのが怖くなって、人とまともに向き合うことができませんでした。
周囲の人たちも「親と同じような目で私を見ている、わたしを邪魔な存在だと思っている」そう思い込んでいました。

実際に裏切られたことは何もないのに、自己否定が強いあまりに「自分の味方になってくれる人はどこにもいない」と人間不信に陥り、自分が相手を信用していないだけなのに、「わたしには信頼して話せる友だちもいない」と落ち込んで、さらに自己否定するようになっていきました。



自己否定する自分に気づくと苦しくなる

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幼少のころから褒められず否定ばかりされてきたので、思考の前提に「わたしの存在は価値がない」という自己否定があり、自分を肯定していいということを知りませんでした。

当時は自己否定しない自分を知らないし、自己否定していることにも気づいていなかったのです。

しかし、16歳のときに転機が訪れます。

高校進学で寮生活を送ることになったんですが、学校でも寮でも長い時間をずっと一緒に生活していると、よくも悪くも相手のいろんな性格、感情が見えてきます。
どれだけ口で取り繕っていい人のフリや悪ぶったりしたところで、隠しきれない本音が透けて見えるんですね。

周りの言動を見ていると、自分と同じように自己否定の強い子もいましたが、自己肯定感の高い子がいることに気が付きました。

なんで、そんなに自分で自分を褒められるん?
ただのナルシストなん?と最初はバカにしていました。(ごめんなさい)

自分と違うその子がなんとなく気になってよく観察してみると、自己肯定感の高い子はわたしのように卑屈でもないし、失敗してもそんなに怒らない。人に対して変に怒ったりしないし、自分にもいい意味で厳しくしていなかったんですね。

本当にやさしい人は、人にも自分にもやさしいんだ、だからみんなに好かれるんだと知ったとき、はじめて、自分の心のせまさと自分が自己否定していることに気づきました。

親に否定され続けてツラい苦しいって思っていたけど、わたしを1番否定しているのは親ではなく自分自身だったんだと気づいて死にたくなりました。

とはいえ、簡単に死ぬこともできないので、そもそも親が悪いんだと親のせいにして、親に対する不満をその子にぶちまけるのですが、いつも、「ふんふん、そっかそっか」と聞いてくれたんですよね。

変になぐさめるでもなく、親を悪くいうのはよくないと正義を振りかざすわけでもない。ただ聞いてくれたことが当時のわたしには本当にありがたくて、わたしもこういう人になりたい!と思うきっかけになりました。

まずは、わたしも自己肯定しなきゃ!!と考えましたが、いかんせん、「わたしの存在に価値がない」が前提にあるので、自己肯定感を持てるわけもなく。。。

自己否定をやめたいのにやめられない。自己肯定感の高い人はあんなにステキなのに、わたしは、、、
身近にいる自己肯定感の高い人と自分を比べては落ち込み、自己肯定感を高めたいと思えば思うほど、それができない自分が情けなくて、苦しくて、「やっぱりわたしはダメな人間なんだ…」と負のスパイラルから抜け出すことはできませんでした。


自己否定する原因は自分あった!?

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20代後半くらいまで、自己否定するようになったのは、親のせいだと思っていました。

親がわたしをちゃんと褒めてくれていれば・・・
親が「失敗しても大丈夫だよ、どんなイトちゃんでも大好きだよ」と言ってくれていれば・・・

いい親じゃないからわたしはこんなにも卑屈に育ってしまった。他人に褒められても素直に受け取れず、猜疑心にさいなまれて苦しくなるのも全部親のせいだ!!

ずっとこんなことを思っていました。

わたしが自己否定をするようになったのは、間違いなく親による人格否定がきっかけだったと思います。

そう。親はきっかけであり、親が原因ではなかったのです。

では、自分に原因があるのか?

いいえ、そうではありません。自分に原因があると聞くと、自己否定の強い人は性格や自分の存在のせいだと思ってしまいますよね?(これも自己否定ですね)

では、自分のどこに原因があるかというと、「自分の思考のクセ」にありました。

ん?
思考ってようは性格じゃないの?と思った方もいるでしょう。

思考=性格ではないとわたしは考えています。それぞれの意味を調べてみると、Wikipediaにはこうありました。

思考は、考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動である

性格は、生物学的・環境的要因から進化する行動、認知、そして情動パターンの特徴的な集合として定義される
(引用元:Wikipedia)

ようは、思考は様々な場面において、自分の行動や意思決定などに影響を与えるこころの活動で、性格は、思考・言動・行動などが習慣的に特徴として現れているところをいうのかなと。(違ってたらごめんなさい)

ちなみに、マザーテレサがこんな言葉を残しています。

思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい それはいつか行動に出るから
行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい それはいつか運命になるから

習慣化された思考は言葉や行動となり、言葉や行動が習慣化したものは性格として見られてしまうということじゃないかなと思っています。
仮に、性格は言葉や行動、思考の集合体とするなら、突きつめて考えると、

自己否定の原因→性格
性格→習慣的に出る言葉や行動
習慣的な言葉・行動→習慣的な思考

ということになりますよね?

だから自己否定の原因は、わたしの性格ではなく習慣的な思考、つまりは思考のクセというわけです。
自己否定してしまうのは、度重なる親の否定的な言動によるものなので、親が諸悪の根源だと思いがちですが、否定された子どもはすべて自己否定の強い子どもになるかというと、それは違うんですよね。

それ、毒親じゃない…?って感じるような親に育てられても、自己肯定感の高い人っているんですよ。
わたしの1番下の弟もそのタイプで、同じ親から生まれ育ったはずなのに、自己肯定感が高いんですね。

必ずしも毒親の子どもは自己否定の強い子になるとは限らないし、人格否定をしない親であっても、親とは別の外的要因で自己否定するようになった人もあるでしょう。

だから、親は原因なのではなくきっかけだとわたしは思うのです。


自己否定する性格は変えられるのか?


性格なんて変わらない。どれだけ頑張ったところで自己否定する性格なんだから、変わるわけがないと思っていました。

でも、マザーテレサの言葉をプラスに捉えたら、「運命は変えられる。行動を変えれば性格も変えられる。言葉を変えれば行動も変えられる。思考を変えれば言葉も変えられる。だから思考を変えればいい。」と取ることができますよね。

しかし、長年の習慣によってついた思考を変えることはそう簡単ではありませんでした。気づけば自己否定をしているから、これはもう自分の意識で変えられないと思い、じゃあ、わたしが意識的にできることはなんだ?と考えた結果・・・

環境なら変えられる・・・!

環境を変えてからも時間はかかりましたが、こうしてわたしは現在の自己否定をほとんどしない、自分のことが大好きなわたしになれました。
自分が大好きになると、人生が本当に楽しいです。どうしたらもっと楽しくできるかな!?と考えるだけでなく、自己否定をそんなにしないので、ツラいできことが起こっても、こころが苦しみに支配されることはなくなりました。

今、自己否定に苦しむあなた。

大丈夫です。

自己否定をやめなくても変われます。自分のことが大好きになったら、どんなことがしたい(考えたい)ですか?
今日はぜひそんな妄想をしてみてくださいね。

▼環境については、以前書いたこちらのnoteもどうぞ

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