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宗教者が習得を目指すべきはビジネスマインドではない

■檀家制度頼みの寺院運営は限界

宗教界が右肩下がりの様相を呈している。
日本に限らず、世界的な宗教教団離れが目に見えて進行している。このことを宗教界では「お寺離れ」、「宗教離れ」などと評しているが、Spiritual But Not Religious(無宗教型スピリチュアルなどと訳される)とその様相を表現し、宗教性の希薄化とは異なった側面から事態を捉える者もある。

寺院運営の先行きが不透明な現代にあって、宗教界では「僧侶にビジネスマインドが必要だ」、「お寺はサービス業であるとの意識を持つべきだ」という声が高まっている。

5年ほど前までは、「お寺はビジネスではない」といった声に力を感じたが、寺院運営の瀬戸際感が宗教界の共通認識として定着してきたためか、檀家制度頼みの寺院運営の限界説はもはや共通認識とも言える。

「お寺はビジネスではない」から「お寺にもビジネスマインドが必要だ」への議論の推移を一周させて、私はいま、「宗教者に必要なのはビジネスマインドではない」と訴えたい。

■手段と目的を取り違えるな

そもそも、宗教界で論じられる「ビジネスマインド」とは、狭い定義に属する。社員研修サービスなどを提供する株式会社リカレントのウェブサイトでは、ビジネスマインドを「仕事に対する姿勢や考え方」と定義するが、宗教界で言われるビジネスマインドは「収益性を確保する姿勢や考え方」といったニュアンスで使われる。着目されているのは、収益性の視点だ。

私が考える「お寺から人が離れていく理由」は、お寺の商売感覚の低さではない。むしろ、果たすべき使命への誠実さの欠如こそが本質だ。収益性がついてこないのは、収益性への執念ではない。他者の苦しみに寄り添いたいという情熱の欠如だ。

金銭はどこまでいっても手段。手段を目的に置き換えてしまった組織を、市井の民は賢く見抜く。その半面、突き抜けた誠意を持つ人を、市井の民は利害を超えて支えるだろう。手段と目的を取り違えてはいけない。

■贈与経済、クラファン、ファンマネジメント

近年、働き方改革などの取り組みとも相まって、「対価」という関係を超えた経済システムとして「贈与経済」に注目が集まっている。

ギブ&テイクを超えたお金の回し方としては、話題のクラウドファウンディングも、日本でその市場規模を年々拡大し、5年ほど前までは数百万円が集まれば成功事例に数えられていたのに対して、今は億を超える資金を集めるプロジェクトも現れ始めた。
実際のクラウドファンディングでは、支援者への「お礼の品」として、原価数十円のステッカーを500円、1,000円で販売しており、神社仏閣の「お守り」ビジネスと変わらない。

「対価を超えた」という意味で古くからある事例としては、スポーツや芸能などの興業マネジメントもその代表例だ。サービスや材に対する対価というよりも、それぞれが偏愛する相手を「応援したい」という気持ちが、その存在を支える。

いずれも合理的な対価という原理から離れて、社会を駆動する仕組みだ。


■マネタイズは手段に過ぎない

市場経済に任せて大量生産・大量消費を続け、人間の物質的豊かさを追い求めてきた時代が一巡しようとしている。試行段階とはいえESG投資という取り組みも姿を現した。経済成長や生産性という概念を超えて、社会を駆動する力を各界の先駆者たちが実践に移し始めている。

皆を勇気づける目的を提示する社会のプレイヤーに、人々は市場原理やギブ&テイクの原理を超えて、応援資金を提供する――そんなことが社会の仕組みとして実装されつつある。

市井の人々がすでに「対価」という考えから脱しつつあるというのに、宗教者が人々と向き合う姿勢について問い直しをするでもなく、収益性の向上に重きをおいた取り組みを強化することに、私は「今更何を言っているのだ」と疑問を感じざるを得ない。

魅力ある宗教者を支えたい、苦しむ人のために奔走する宗教者を経済的に困らせたくない。社会にはそんな善意が満ちている。

宗教界はトレンドの後追いを目指すのではなく、本来の社会が願い、求めることがどこにあるのかを真摯に見つめ、突き抜けた誠意で社会の力になってほしい。

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