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Clubhouseと千手観音 苦しみの多様性に寄り添えば……

■Clubhouseがイノベーターの夜を熱くしている

アメリカ発の音声SNS「Clubhouse(クラブハウス)」が、1月23日から日本でサービスを開始し、新しいモノへの感度の高い日本人を熱狂させている(2月7日現在)。


元Google社員が2020年に創業したAlpha Explorationが世に送り出したこのアプリは、その独特の「中毒性」から「可処分時間」争奪の強者として旋風のように現れ、瞬く間に話題をさらった。
Twitter、Facebook、Instagram、YouTubeなどのSNSやメディアで、先行者利益の必勝パターンが見られることから、その活用を探ろうとするインスタグラマーやユーチュバーなどの参入も目立っている。


勿論、宗教者や終活産業関連の事業者の利用も目に留まる。

このアプリは、iOSのみの対応でAndroidには未対応。原則として実名の登録で、携帯電話番号でつながった知人への招待制で成立しているという条件も手伝い、保守的な脳みそを持つものが多いこの業界の中で、エベレット・ロジャースの言うところの新しいもの好きな僧侶やビジネスマンが、その利用者の中心になっているのだろう。


■音声メディアの可能性


「昨晩は8時間ぶっ通しでClubhouseしてた」「Clubhouseで寝不足」なんて書き込みがFacebookやTwitter上で踊っている。
Clubhouseというアプリが、時間泥棒と言われるほどの熱狂を持って人々に受け入れられる理由の一つに、音声型ディバイスの可能性を指摘する声は多い。
AIスピーカーや外音取り込み型イヤホン、自動車でも「ハイ、メルセデス」のCMで話題になった車載用音声認識システムなど、音声とAIが連動するテクノロジーが急激な進歩を見せている。


その特徴は、「ながら」だ。家事をしながら、散歩しながら、仕事をしながら、運転しながら……インターネットの世界につながることで、“人間の常時接続”が実現する。画面を見つめることを前提とするパソコンやスマートフォンとは、異なる世界観を見せてくれる。
必ずしもこうした可能性に着目したわけではないかもしれないが、音声メディア、ないしは音声SNSと、宗教活動の親和性に早くから着目し、行動に移す宗教者も現れた。
松本紹圭さんがポッドキャストなどで発信する『音の巡礼』がその一つだ。宗教者との対話に続いて、読経の音声を配信している。


■千手観音とジャータカ物語


新しいモノを取り入れ実践する人を見たとき、周囲の人間はおよそ三通りの反応を見せる。その先進性に感嘆する人、まずは批判から入る人、そして無関心な人。
「Clubhouseだの、音声型SNSだの、そんな流行り廃りは寺には関係ない」というのが、仏教界に限らず、大方の宗教者の反応だろう。

唐突だが、千手観音の話をしたい。
日本では京都の三十三間堂や奈良の唐招提寺の千手観音が有名だが、その原型はヒンドゥー教の神にあると言われている。
千手観音はその名のとおり、千の手を持つことで知られているが、千の手には宝の珠や剣、斧、蓮の花、瓶、髑髏、杖、葡萄などが握られており、苦しむ人々をあらゆる手段で救う姿勢を示していると考えられている。

さらに話は飛んで、仏教にはジャータカという釈迦の前世を描いた物語が伝わっている。釈迦が象や鹿、うさぎなど動物を始め、王様、大臣、商人、盗賊にも生まれ変わりながら、その姿で接するいのちを救ってきた物語が描かれている。

両者に共通するのは、あらゆる手段、あらゆるシチュエーションを通して、悩めるものの苦しみを救済していこうという姿勢だ。


■宗教者の個性が千手になる


アンナ・カレーニナの法則という言葉がある。トルストイの著作『アンナ・カレーニナ』の冒頭「すべての幸せな家庭は似ている。不幸な家庭は、それぞれに異なる理由で不幸である」という記述に源を発する言葉だ。
悩めるもの、苦しむものの多様性を示す言葉として知られている。

宗教者がClubhouseに挑み、音声SNSを取り入れる。大変良いことではないか。これまで脈々と続いてきた従来の信仰の救いから漏れてしまった人を、救える可能性がある。そのためには、人々にリーチできるあらゆる可能性にチャレンジすることは、ジャータカの物語に類似するではないか。Clubhouseというツールも、千本の手が握る一つの道具になるのではないか。

SNSが得意であるという宗教者の個性も、演説が得意であるという宗教者の個性も、傾聴に優れているという宗教者の個性も、温かい料理を他者に振る舞えるという宗教者の個性も、宗教者の多様性は千手観音の一つ一つの手となる。

苦しみには多様性がある。ひとりひとり異なる。多様なアプローチで、苦しみに寄り添う。その思いがあれば、「救いはこうでなくてはいけない」などという概念は、溶けてなくなってしまうはずだ。

宗教者の個性を、歓迎したい。

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