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【体の中でつくられているもの】

サクン、サクン。 サクン。
濡れた私の髪の毛に、滑らかな刃物が入っていく。
はらはらと散っていく私の一部。
古びて錆びついたものを切り落とすのは気持ちが良かった。不要なものを「もう要らない」と言い切れる心地よさがあった。

だから髪の毛は伸びるのかもしれないとまで思えた。
この、切り落とされる一瞬のために。
私を生まれ変わらせるこの一瞬のために。

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「すごく、真っ直ぐですね。」

その美容師は初めて言葉を口にした。私はケープに落としていた視線をはっと持ち上げる。鏡越しに彼女の顔を認識すると、反射的に口角が少し上がった。

「あ、そうですか?」

「ええ!切り口がプツンと。真っ直ぐですね。」

私の口角に安堵したのか、エネルギーをまとった言葉が彼女の口から滑り出る。

「でも昔は…、学生の頃は、爆発してたんですよ。」

「えっ?クセ毛だったんですか?」

「クセなんて可愛いもんじゃなくてもう…爆発でした。」

ふふふ…と微笑する私の真っ直ぐな毛髪を、真っ直ぐ切り落としながら彼女は言った。

「でも私も変わりましたね、髪質。やっぱりどんどん変わるらしいですよ。体の中でつくられているものですからね。」

その瞬間、私の頭の中はゆらゆらと小さな波を作る。脳がぼんやりと霞んでいく。
鏡に乗っていた視線は白色のケープに落ちていく。

                                     

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九月だった。
急いでセーラー服を脱ぎ捨てて、トレーナーとスカートに着替えて自転車に飛び乗る。財布には一万円。大金だ。
小さな駐輪スペースに自転車を置くと、ガラスのドアに手をかける。受付に立つ見慣れた女性が私に気づいた。綺麗な彼女の綺麗な笑顔。
ふわっとドアを引くと、カランコロンとベルが鳴った。何度も聴いてきたその音が、こんなにも軽やかに耳をくすぐるのは初めてだった。

私は受付台に置かれたラミネートを指差した。「縮毛矯正」の四文字が飛び出して見える。
「オッケー。」綺麗な笑顔がさらに綺麗に揺れた。


マイクを持って歌ったりドラマで恋に落ちる女性達に、もじゃもじゃ頭は居なかった。皆、真っ直ぐに分けたストレートヘアをさらさらとなびかせていた。

私があの自転車に再びまたがる時には、この髪の中を風が真っ直ぐ通るのだ。
恋い焦がれているあのクラスメイトの瞳の中で私の髪は風に真っ直ぐなびくのだ。

明日は特別な輝きを放って私が追いつくのを待っている。
隣のクラスの親友と約束していた。今日、縮毛矯正を同時にかけることを。明日の登校で互いに披露することを。
もじゃもじゃ頭をくつけてお喋りする私達は昨日まで。明日の朝にはストレートヘアをなびかせ颯爽と廊下を歩く私達だ。

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じっとりと時間が絡みつく。
床の木目だけが私の視線を受け入れてくれる。
重たく漂うコーヒーの匂い。
警察署みたいな職員室。
剥ぎ取ってしまいたかった。
こんな艶々のストレートヘアなど。

「縮毛矯正は、パーマでしょ。校則違反でしょ。」

担任の女性教師の目が光る。はい…と呟くだけで、その鋭利な視線に合わせられない弱々しい視線を、ただただ足元の木目に滲ませた。

大金と大量の薬品と熱とダメージにジャブジャブと浸してやっと手に入れたこのストレートヘアを、ただ生まれただけでなびかせているクラスメイトに嫉妬したのではなかった。
冷淡な空気をまとうこの体の奥底にぐるぐると急速に渦巻く怒りは、隣のクラスの親友に対してだった。
彼女の担任教師は急におとなしくなった爆発頭に何の関心も持たず、彼女はその生まれ変わりをすんなりとこの世に受け入れてもらえたのだった。

無言に沈む私に、担任教師は一言、トンとよこした。

「あなた、そんなに小さい人間だったの。友達も同じ様に叱られないと納得できないの。」

当たり前だった。それ以外に見つからなかった。
開けっ放しの古びた引き戸。
廊下を行き交う生徒達がうつむく私の横顔を流し見していく。
通り過ぎていったのはあの子の咲い声。
セーラー服にリコーダーに、ストレートヘア。きっとあの子は今日から可愛い。

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「はい、後ろはこんな感じです。いかがですか?」
美容師の明るい声にハッと鏡を見上げた。
笑顔の彼女に抱えられた合わせ鏡には、綺麗に切り揃えられたストレートヘアが映っていた。
彼女の笑顔に先ほどの声が重なる。


「体の中で、作られてるものですからね。」

腹の中でぐるぐると渦巻いたあの黒く熱い怒りとは似つかわしくない、私の体内から生み出されたこんなに真っ直ぐな毛髪。


自分の罪よりも、難なくすり抜けていったあの子の罪が許せなかった。
他人だけを見て、自分のことは見ていなかった。
変わらなくちゃいけなかった。
あの日、教師は私を変えようとしていた。
教師の言葉は怒りではなく呆れでもなく、諭しだった。

お釣りとスタンプカードをもらってドアを開けると、暖かな風がぶわっと私を過ぎ去っていった。
髪の毛一本一本の合間を撫でて流れていった。
風と遊んだ髪の毛は、さらさらと真っ直ぐ定位置に舞い戻る。

許せなかったのは、友人ではなくきっと自分だった。
剥ぎ取りたかったのは、ストレートヘアではなく、きっと私の下らぬ意地だった。あの日の偽物の髪の毛は、私にきっと似合っていなかった。

軽くなった髪に真っ直ぐ広げた指を通す。
それは拒否することなく、すんなりと撫でられていく。
私は颯爽と歩き始める。
真っ直ぐにこの髪の毛をなびかせて。

この髪の毛は、私のこの体がつくったものだ。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!