大事に生きるか破滅的に生きるか

今日はおじさんは説教モードでした。つくづく37歳のええ歳こいたおじさんだなあと思いました。あと、自分の真面目なところに気づきました。


ちょっと僕の日常を見ているといろいろと楽しそうだし、とくにあまり怒りを表に出すことなく、楽しそうに、穏やかに、でも活動的な面が、どんな日常から生まれているのかを見たいという子がわざわざ関西から日常の見学をしに来てくれました。

単なる僕の日常を一緒に過ごしてもらうだけなので、まあ別にかまへんで〜ってことで、今日は半日ちょいくらい一緒にいて、まあ、身の上話もするわけです、まあそれなりに当然ながら。


そうすると、まあオカンとの関係性があんまりゴキゲン良い感じじゃないってことで。まあよくよく話を聞いていると、まあオカンは娘のことが気になって仕方ないわけで、一人娘を女手ひとつで育ててきた女性の気持ちになってみればいろいろとイメージできるわけです。

「自分の子育てが間違ってないかな」とか「私に育てられるの辛かったんじゃないのか」とか「自分自身はなんか子供にも世の中にも、迷惑しかかけない存在なんじゃないのか」とか思うだろうなーってことは、想像に難くないわけです。悩みながら娘を育ててきて、でも不器用で、言いたいことのうちわずかのことも素直には言えずに過ごしてきていたりするんだろうなと。


まあ、そんな難しいけど微笑ましいようにも思う親娘のやりとりを冷静に聞いた上で、「想像するの難しいかもしれんけど、オカンも寂しいんやで」なんてことを言いながら、そろそろ社会人になる歳やからさ、まあオカンのキモチもわかってあげーな、なんて話をしてまして。


ただ、そっから先は、まあ世の中的には大変なことでもないんでしょうけど、金銭関係にまつわる諸々についての価値観の話になりまして。なんといいますか、住宅ローンもあるし、家にかかる費用も支払い中なので、十分に借金があるんでね、人のことを言うことはないんだけども。

お金についてはやっぱり大切に考えたい!そして、なるべくややこしいことになるリスクにはすこしでも触れないほうがいいってことを、もしも娘がいたなら全力で伝えちゃうだろうし、なんだったらめっちゃ怒りそうだなーなんてことを感じたのでした。


いろいろとあえてぼやかして書いてるんですが、なにせ、その事案がどうかってことよりも、なんか自分が思うよりも意外に堅実で真面目な人間なんだな、僕は。。ということを感じたのでした。んんー、そうでもないかもしれないですが。


んでまー、実際のところ、いろいろとチャレンジはしながらも破滅的な生き方をしているわけではない。自分の生命はとても大切に扱っているし、自分が生きる時間のことをとても貴重に感じていて、自分が誰かと過ごす時間にはすごく価値があると信じられていて、いやはやなんて幸せな(おめでたい)人間だろうかと思うのです。

今日も幸せな気持ちで、大切な友達とサウナにいけたしね。ああ、本当にこの世は極楽ではないか。めっちゃ幸せじゃないか、いいじゃないか。


だけどそれでも、この世の中が生きているのにしんどいから「死にたい」という気持ちがあるとき、それは本当に残念だし、そんなことを許容するほどキャパシティは広くないし、まして自分の知り合いがそうだとすれば、出来れば、とりあえず気持ち良く生きる方法もあれば、素敵な人達もいっぱいいて、そういう優しい人達と数年過ごしてから考えてみて、と言いたい。

ただそれでも、どうしてもそうしたいなら、止めることはできないなと思うし、その業まで引き受けていく覚悟を尊重することにしたいと思っている。


でも死ぬ勇気があるのなら、この世にある不条理を全力で小馬鹿にしながら生きていくような、開き直ってしまう覚悟を持てたらいいのになと思う。


ただ、結局のところ僕にできることは、僕がゴキゲンであることくらいだ。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。