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「勉強中」の終わり

中高年の「学び直し」とか「リスキル」とかが叫ばれるようになりました。
変化の激しい時代、知識や経験をアップデートし続けないとあっという間に世の中から置いていかれてしまいますし、新しいことを勉強する頻度はますます上げざるを得なくなってきてるのではないでしょうか。

人は何歳ぐらいから「勉強」をするようになっているでしょうか。
幼稚園の頃というのはどちらかというと情操教育であり、遊びを通じて学ぶことに重きを置かれていて、勉強らしい勉強というのは小学校に入ってから、すなわち義務教育に入ってからではないかと思います。
その後、受験勉強があったり試験勉強があったりする中で、「勉強」とは何らかの知識を自分の頭の中にインプットする作業のことを指すようになっていると考えられます。

リスキルや学び直しになって、社会人経験がそれなりにある人たちがあらためて勉強をすることになった時、それは義務教育のそれとどう違うでしょうか。
そして、その勉強に終わりはあるのでしょうか。

勉強と学習の違い

勉強と似て非なる言葉として「学習」がありますね。よくごっちゃになって語られてしまっていますが私は明らかな違いがあると考えています。
これはあくまでも私見ですけれど、「勉強」はインプット中心で「学習」はアウトプットの後に行われるものと考えています。

前述の義務教育はまさに「勉強」であり、学生は知識を自分の中に取り込むために勉強をし、それを試験でアウトプットすることにより自分の知識としてものにできたかどうかを測ることができるわけです。

一方の学習は、テストの結果から自分が間違っていることを知るという経験があり、正しいやり方を「真似ぶ(学ぶの語源)」ないしは正しいやり方を「習う(見倣う)」ことで自分の身体知に落とし込むような状態を指していると私は考えています。

学習はトライアンドエラーの経験の中で振り返りながら初めて行うことができるもので、人間だけでなく動物も行うし、状況に対応するために生きている限り永久に、意識的あるいは無意識的に行われるものだと思います。
だから「生涯勉強」ではなく「生涯学習」なのでしょう。

勉強のゴール

勉強が、自分が持っていない知識をインプットする行動のことを指すとすると、そのゴールは知識が自分の中に蓄えられていて引き出せる状態になることでしょう。

ネットで調べたニュースをクリッピングして保存したり、コピペしてレポートとして提出するだけでは頭の中に記憶としては残り難く、自分の中から引き出すことがすぐにできないという意味では勉強とは言えないと思います。
知識が自分の血肉となっていて、問われた時に何を参照することなく答えることできる、つまり引き出すことができる状態を作っていて初めて勉強したと言えるかと。

ただ、学校教育では勉強と試験のサイクルを繰り返す中で、短期記憶に知識を留めることができればそれでOKとなってしまい、後々になって引き出すどころか記憶に残っていないということが起きてしまいます。

記憶の中に長く残し、引き出して使えるようにするには、反復して復習するか勉強したことをアウトプットして使うこと、すなわち知識を自分の経験と紐づけることが必要になってきます。

アップデートを自力でできるか

私も何か新しいことを勉強しているときは、「今勉強中でして、まだよく分かっていないで言っているのですけれど」と前置きしてから他者に対して勉強中の知識を披露することがあります。
仕事がら研修やコーチングで知識を引用するときなどがそれですね。言わば、詳しく聞かれても説明ができないので逃げを打っているわけですが。

そこで、自分がどういう状態になったらそういう言い方をしなくなるかと考えてみると、人から聞いたり本で読んで身につけたことを自分の言葉で語れるようになるところが条件の一つとしてあります。

例えば、本を読んで身につけたものがあったとして、その中に書かれている言葉をそのまま引用するのではなく、書かれていることの意味を理解して異なった事例や表現を使って他人に伝えることができるようになっている状態がそれです。

ただ、それだけでは勉強中からは抜け出せなさそうです。
というのも、人から教えられたり本で読んだ知識はあるカテゴリーに属しているはずであり、一冊本を読んだとか一人から聞いたぐらいでは知識というよりも単なる引用や伝聞とその解釈に過ぎないのです。
勉強の場合は、そこから他の文献を調べたりしながら知識を横に広げたり、さらに理由や原因を探究することで深さを出してゆくことになります。

それをしながら、自分の中にある知識のアップデートが自分だけで継続的「できるようになった時、初めて「勉強中」は終わりを迎えるのではないかと私は考えています。

特定のカテゴリーについて自分で語り探求し続けることができるようなところまで行っているので、そこから一歩先は、新たな知識を外からインプットするのではなく、自給自足的に知識を生産して蓄え、使い、補給することができるようになっているということです。

どういうことかわかりにくかもしれないので、コーチングについて勉強するときを例として考えてみましょう。

世の中にコーチングの本はたくさんあります。そして先輩コーチからやり方を教えてもらうこともできるでしょう。
そうやって勉強して、コーチングのハウツーを見よう見真似でやってみるのが「勉強」の段階ですね。
当然、わからないことが出てきますから色々調べたり別の人にきいたり、自分自身でやってみて気づいたことをまとめたりもします。そうしてるうちに、本に書かれていたこと人から聞いたことの本当の意味がわかってきます。「あ、こういうことか」と。
その時点から自分の言葉で語れるようになります。

自分の言葉で語れるようになっていると、人から聞いたこと本で読んだことを自分自身で実践できるようになりますが、所詮はコピーです。それだけではそこから発展はしません。
そこで、他のやり方をさらに勉強したり、別の人のやり方を真似たりもします。この時点でもまだ勉強ですね。
そうしているうちに複数のやり方考え方が頭の中に入ってくるとパターン化ができるようになります。そのパターンをもとに、知識の中身をアップデートして最新情報と差し替えたり、グレードアップしていったりをなんのインプットもなくできる状態…
これが「勉強中」の終わりです。

そして「勉強中」が終わると、そこから先は学びの無限の地平が待っているのではないかと思います。そこに向かって歩いてゆくのに、もはや誰かの助けは要りません。
なぜならば「勉強中の終わり」を経験できた人は、学習の仕方をも同時に身につけているはずだからです。

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