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かつて日本の山が禿山で、今の山は近代の植林事業の結果であることを振り返って、人間と自然の在り方についてちょっと考えてみた。

 現代日本人が知っている故郷の山は近代の植林事業で作られたもので、大半は太平洋戦争後に形になった。 それ以前、日本の故郷の山は「禿山」か「草原」が普通だった。 藩閥政府によって、一旦人々は里山から締め出され、植林政策によって現在の姿の山が増えたが、太平洋戦争中の切り出しで再び禿山になった。

 明治から昭和にかけての里山から締め出しと近代植林事業の開始は、日本列島の生態系の大改造でもあった。 もっとも当時、生態系の概念をもっていたのは南方熊楠など一部の優れた学者だけだった。

 現在日本の森林の4割が人工林。6割が自然林。 自分が住んでいるところから目にはいる森や林は人工林だと思って良い。 杉や桧はもちろん人工林。 自然林に見えても人為的に維持されていたりする。 本物の原生林は老木が多く、生態系が固定しがちなので、人間がちょっとだけ伐採すると森が若返るのだ。だから人の手が入っているのだ。

 しばしば人間が自然の一部であることを忘れて、人間がいなくなると豊かな森が増えると思っている人がいる。 実際にはそうならない。 原生林の生態系は固定的で、人間の活動にはもちろんだが、自然災害にも脆弱だ。 自然界において人間は、森の利用を通して森を若返らせる役割を持っているらしい。

 江戸時代から明治・大正にかけて日本の山は禿山だったが、それは破壊された自然だったのではない。 それはそれで立派な生態系で、その状態に応じた生き物が繁栄していた。 自然界は適者生存で、人間の経済活動程度で生態系そのものを破壊することは出来ない。それに応じた生態系にシフトするだけだ。

 自分も参加していたのであまり胸を張れないが、たとえば海岸のゴミ拾いをした人は多かろう。 だが、ゴミを拾い上げたとき、そのゴミの下に多くの生き物が寄り添っていたことを目にしたはずだ。 ゴミは人間が出したものでみっともない。しかし或る生き物たちにとっては快適な環境だったりする。

 最近、海洋プラスチックが問題視され、本当に効果があるかどうかわからない節約が奨励されている。 ところが問題視されるようになって10年もしないうちに世界中でプラスチック分解細菌が発見されてしまった。人間が出したプラスチックゴミすら必要な資源として生態系に組みんでいるのが地球の自然なのだ。なんと逞しいのだろう。我々人類が何をどうしても叶うわけがない。

 自分は地球環境保護運動に賛成である。 しかしそれは「人間である私」にとって都合のよい環境保護運動であって、地球そのもの、生態系そのものにとっては、実はどうでもいいことなのだ。人類の過剰な経済活動によって自然環境が改造され、我々人類にとって快適な環境ではなくなってしまうことを我々は恐れている。だが地球の自然環境はそれを恐れていない。

 人類が過剰な経済活動によって現在の地球環境を改造してしまい、人類を含む多くの生物を滅ぼしてしまったとしても、地球にとっては過去何度かあった生物の大絶滅が一回増えただけである。その後、滅んだ生物の位置に別の生物が添えられ、数百万年、数千万年の時をかけて繁栄するだけである。だから人類は自然そのもの、生態系そのものを心配する必要はない。
しかし、私は人類の滅亡を望まない。私自身がそこに含まれるからだ。だから現在の「人類に都合の良い環境」を守ることに賛成である。

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