【SF小説】 母なる秘密 1-1
林英治が一階に下りると、母の美絵子が夕飯を作っているところだった。
英治は伸びをしながら、キッチンカウンター越しに美絵子に話しかける。
「勉強してたけど、気づいたら寝ちゃってたわ」
「あら。そんな調子で、受験は大丈夫なの?」
「大丈夫。落ちないよ」
「油断は禁物よ」
美絵子がいたずらっぽく微笑んだ。
今は高校三年生の夏。英治は大学受験を控えていた。受けるのは地元M市の中流大学。英治の学力で落ちることはまずないだろう。
もともと、英治は都内の大学へ進み、この家を出るつもりだった。だが、美絵子がそれに断固反対したのだ。
英治は母子家庭で育ったものの、美絵子は一流企業に務めており、経済的な困窮はしていない。それでも、英治は部活動にも参加していないし、友達と遊ぶことも滅多にない。
そんな風に、美絵子には英治を束縛する節があった。片親ならではの不安の表れなのだろう、と英治は捉えていた。
父については、十六年前に病気で亡くなった、と美絵子から聞かされている。英治にとっても、家族と呼べるのは彼女だけだった。
数年前までは鬱陶しく感じられた束縛も、現在はその気持ちを汲み、受け入れるようにしている。進路の件も、結局は英治が折れた。
「食器並べてもらえる?」
鍋のカレーをおたまですくいながら、美絵子が言った。
英治はキッチンに回り、美絵子の背後にある食器棚から、二人分のカトラリーを取り出した。
ふと、奇妙な感じがした。明確にこれがおかしいというものではなく、漠然と自分の知らない空気を、英治は感じ取った。
「髪型変えた?」
英治は美絵子に訊いてみた。
「変えてないわよ」
「そっか……。そんな気がしたんだけど」
「もしかしたら、白髪染めしたからかもね」
美絵子がはにかんだ。
改めて見ても、その髪は以前から肩につく程度で軽く巻かれていたし、化粧もいつも通り薄めだ。他に何かが変わっているとも思えない。
母の言う通りなのだろう、と結論づけ、英治は考えるのをやめた。
料理をテーブルに並べ、彼は席についた。向かいの席に美絵子が座る。
合掌した後、カレーを口に運んでいると、
「そういえば」
と、美絵子が話し始めた。
「さっき金庫を開けようとしたんだけど、鍵の番号を忘れちゃって。あなたに教えてなかったかしら」
「金庫? いや、聞いてないけど」
母の部屋にある金庫のことだろう、と英治は推察した。
小学生の頃、勝手にその金庫を開けようとしたことがある。だが、美絵子に見つかってしまい怒られた。なので、中身はおろか、番号など教えてもらっていない。
「急いで開けないといけないの?」
「そんなことはないんだけどね。たぶん、どこかにメモしてるはずだから、ゆっくり探してみるわ」
「そう……」
金庫のことには触れない方がいいと思っていたのだが、そんなこともなかったのか。それとも、よっぽど大事なものが入っているのか。
英治は、この際に訊いてしまおうか、と思ったが、直前で気が咎めてやめた。スプーンを箸に持ち替え、沈黙を埋めるように、そそくさとサラダに手を伸ばした。
野菜の塊を適当に口へ放り込む。
その瞬間、異常な苦味が彼を襲った。強烈な悪臭が口腔から鼻腔に押し上げ、痛点を鋭く突いた。
「おええ」
と、英治はたまらず皿に野菜を吐き出した。
美絵子が目を見開き、椅子から腰を浮かせた。
「ちょっと! 大丈夫?」
「……最近、根を詰めてたから、疲れてるのかもしれない。今日はもういらないや」
「そう……。無理しないでね」
英治は呼吸を整えながら立ち上がった。吐いたものをティッシュでくるみ、ゴミ箱に捨てた後、急いで二階に上がった。
それから、自室のベッドに腰を下ろした。唾を飲み込むと、残った苦味が食道に押し込まれ、ひどい胸焼けがした。
とにかく状況を整理しよう、と英治は混乱する自分に言い聞かせる。
自分の体に何が起こったのかはわかっていた。細かく砕かれていて見えなかったが、あの特有の苦味や刺激臭は、間違いなくアボカドだ。
英治は幼い頃、外食先で同じような目に遭ったことがある。他人に言わせれば、アボカドは苦味どころか甘味を感じるものだろうが、彼にとっては生理的に受けつけない食べものだった。
そして、それは美絵子も同じであった。この家の食卓にアボカドが出ることなどありえないのだ。
食事の前から違和感は覚えていた、と英治は回顧する。
あのときは深く考えなかったが、その後もいつもと違うことが起きた。タブーだと思っていた金庫の話題を、美絵子が自ら持ち出してきた。アボカドのことも含めると、それらも思い過ごしではない気がする。
だとしたら、この異様さの正体は何だというのか。
段々と頭が重くなり、英治はベッドに倒れ込んだ。本棚に並べられた小説が目に入る。
ある考えが頭に浮かんだ。小説のように非現実的な考えだったため、英治は自らの想像力の豊かさに呆れた。
だが同時に、かき消そうとすればするほど、その考えを無視できなくなっていた。
あの母は、偽者なのではないだろうか。
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