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文 學 雜 話

◇藝術凡庸私論◇

 或る春の夜更けであつた。

 私は田舎にゐる友達の家へ遊び

に行つたが、その日は午後からひ

どい雨に降りこめられた。やがて

夜も更けたので、雨のはれ間をみ

て友達と別れ、その田舎の小驛か

ら終列車に乗つた。

 日曜日であつた。その汽車には

どこか風景のいいところへ一日の

游山を樂んだひとびとが、生憎の

雨のために皆しほれきつて、疲れ

たからだをゆられてゐた。

 みると彼らはもの憂げに今日の

雨にうらみごとを言ひ合つてゐる

 然し今はもう良い月夜である。

 雨雲は全くぬぐはれて、蒼い春

の夜空には星がきらきらと澄んで

ゐる。さうして雨はれのあとの大

きな月が、もう大分たかくのぼつ

てゐる。晩春の十五夜の月は、野

末にけぶらふ夕月のいろに似て赤

い月である。私はさういふ窓外の

夜景にうつとりとみとれてゐた。

 すると、そのときまでしきりに

彼らの一日の行樂が雨にさまたげ

られたことを飽かず心惜しげに話

合つてゐた私のすぐ隣の男が、ふ

と窓をあけて、高い空の月を仰ぐ

やうにした。さうして彼は、手を

かざして月を指呼し乍ら彼の友達

に呼びかけたのである。

 ー見たまへ。あの月はいかにも

 晴ればれとしたいい月ではない

 か。恰度僕だちの心持が今漸く

 晴ればれとしてきたやうに。

 さて讀者諸君―この男の言葉に

對して彼の友達がどんな風に答へ

たかなどといふことはどうでもい

いことである。それは私のこの文

章の目的ではない。私にとつては

以上の挿話だけで十分である。

 そこで讀者諸君―たとひ、我わ

れがどんなつまらない生活を生き

てゐるものであつても、いまこの

ひとが、ふと空の月を仰いでひと

りでに洩らしたやうな美しい氣持

は、殆んど誰れにでもひそんでゐ

るものなのである。さうして折り

にふれていまこのひとがあらはし

たやうにその美しい心持を表現す

ることがあるものである。

 そこで又讀者諸君―藝術といふ

ものは、つまり、この境地に終始す

るものではあるまいか。多くのひ

とは藝術といふものを餘りに遠い

距離に置いて考へてゐるやうであ

る。凡俗なる自分の到底理解する

ことのできない高遠な世界のもの

だから、自分だちがどれほど背の

びをしてもその星のやうな藝術に

手はとどくものではないと思ひこ

んでゐるやうである。又他の多く

のひとびとは、はじめから藝術と

いふものを餘りに軽蔑してしまつ

てゐる。

 いづれも大へんなまちがひでは

あるまいか。藝術といふものは決

して、さういふひとびとが考へて

ゐるほど六づかしいものでも、わ

れわれ凡俗なる人間の生活と無縁

なものでもない。それは、われわれ

日常生活の片隅に深く埋められて

はゐるが、それがほんのちょつと

した崇高な、微妙な、美しい動機

にふれると、そのときまで忘れ果

ててかへりみられなかつた、我わ

れのなかの藝術的美が玲瓏と芽生

江るものなのである。

 以上は藝術創造ではなく、重に

藝術に對する我われの態度に就い

ての甚だ凡庸なる一私見である。

◇藝術的煩悶と
   藝術的慰籍◇

 ―凡そ、世の中に、藝術家の素
質をもちながら、而も藝術の才能
のない人ほど氣の毒なものはある
まい。その人は俗人の中にまじつ
て、彼等と幸福を共にすることも
出來なしし、藝術家と同じ高さに
立つて、創造の喜びに浸ることも
出來ないのである。その人はただ、
他人のすぐれた藝術を仰いで、そ
れを恰も我物の如く愛好し、出來
るだけそれに親しみ近づくことに
よつて、わづかに藝術家の持つ喜
びの幾分を知る。それでさういふ
人たちは、多くは讀書好きになる
とか、金があれば書畫骨董を集め
るとか、旅行とか、漂浪とか、さ
ふいふ手段で自然の詩の中に憂ひ
を遣るとか、ややともするとそれ
らの方面へ走りたがる。――

 以上は「神と人との間」や「鮫人」

と共に僕の愛讀措くあたはざる、

谷崎潤一郎氏の「肉塊」の一節であ

るが、この一節ほど僕の心をたの

しくするものはない。

 僕は、たまらなく詩をかきたく

て、しかもなにも書けないときと

か、たまらなく、いい小說を書きた

くて書き得ないときなどに、自分

の才能の乏しさをかこちながら、

虚しい眼を走らせてわづかに自ら

を慰さめるのは、常にこの一節で

ある。    (十五年三月稿)

(越後タイムス 大正十五年四月四日 
     第七百四十七號 三面より)


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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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