秋 夜 雜 筆
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◇或る學者は、もう一つ大地震が
近いうちにくるだらうと云つてゐ
る。それでなくても、氣の弱い私
は、日に一回以上もある揺れ返し
のたびに、唇の色まで變へるので
ある。だから、夜もよく眠れない
し、惡夢に襲はれない晩はないの
である。今度大地震が來たら、私
達の住んでゐる邊は一番危い。前
ので家の骨組がゆるんでゐるから
である。若し家がつぶれゝば、木
造の多い山手だから、前にも增し
てひどい火事が起るにちがひない
◇東京に住むのが恐ろしい氣持は
誰れもに共通な氣持であらう。中
には一度、どこかへ逃げてしまつ
た人々が、ぼつ/″\東京へ歸へつ
てくるといふ話もある。現に私も
そんな實例を知つてゐる。それら
の人々はすべて、東京生活が懐し
いとか、忘れられないとか、東京
を離れて自分の生活はないとかい
ふ、都會生活中毒にかゝつてゐる
人ばかりではあるまいと思ふ。他
の土地へ行つても、郷里へかへつ
ても、生活の途がないといふ人も
随分と多いに違ひない。
◇私もその一人である。尤も私の
は、東京に住む恐ろしさに打ち勝
つだけの或る執着を、東京に持つ
てゐる。或る希望を抱いてゐる。
私の隣家では一家を擧げて山口へ
行くといふ話をきいて、私の母は
涙ぐみ乍ら、こんな恐ろしい東京
から一日も早く逃げて郷里へかへ
らうと私に迫つて、私を困らせる
のである。私も仕方なしに、かへ
るのはいゝが、どうして生活して
ゆくのですか――といふ風な露骨
なことを云つて、母の心を餘計淋
しくしてしまふほかないのである
×
◇金を儲けなければ生きてゆけな
いことを、私達は餘りによく知り
すぎてゐる。それだけではない、
私達無産者の殆んどは金と生命と
を一瞬だつて離して考へることは
出來ない。もつと極端に云へば、
私達の肉心は、金のために、縛り
上げられてゐる。だから今度のや
うな塲合でも、先づまつ先きに頭
にくるのは、どうして金を得るか、
どうしたら握つた金を失はないか
といふことである。
◇災變から、三日とたゝないうち
に、焼跡一面に露店商人が店を竝
べたといふではないか。私はあん
な非常の際にでも猶――いや、非
常時であればあるほど、人間が生
活のために金儲けを、一番さきに
考へずにゐられないやうな社會組
織を呪ふものである。一方數知れ
ない焼死者の身体にも皆それ/″\
自分の金をつけてゐたさうである
そんな事實を見せつけられると、
もう玆まで曲りくねつてしまつた
世界を叩きつぶしてしまひたいや
うな感情に私はかられるのである
×
◇一体に東京の山手に住む人々は
ふだん、めつたに隣家の人や向ひ
側の人などと親しく話し合ふやう
なことはしない方が多いのである
ところが今度の災厄から、或る人
は、一處に幾家族も集つて野宿す
るし、或る家では井戶を開放する
し、食糧を融通し合ふといふ工合
に、知らず知らず、打ちとけて、
於互に力となり合ふやうになつた
美しい相互扶助を實現したわけで
ある。
◇こういふ個人間の善い心持や行
動が、こんな非常時だけでなく、
普斷もつゞけて欲しいものである
さうした人間生活が、擴がり、進
んでゆくと、私達の社會はほんた
うに輝くのである。無政府主義の
美しさは、こゝにあることを忘れ
てはならない。
×
◇或る夜ふと、去年の秋に死んだ
父のことを思ひ出す。そして去年
死んでしまつた父を幸福だと思ふ
去年の九月頃は、衰弱しきつた父
は、只、死期を待つて、病床に苦
しい日を送つてゐた。だから去年、
今度のやうなことが起つたら私達
はずゐぶん悲しい目に會つただら
うと思ふ。
◇三晩といふものは夜霧の深い草
原へ雜魚寢をしなければならない
食物もなく、玄米は仲々咽喉を通
らない。そんな不自由を忍ぶには
父はあまりに衰弱してゐた。私は
父の苦しむさまをみてゐれないだ
らう。そんなひどい目に會はずに
安らかに死んでいつた父を、私は
幸福だと思ふのである。
×
◇ある日、私は早稲田大學の前の
古本屋をのぞきに行つた。そこは、
今、東京に殘つた。古本屋の集ま
つてゐる唯一つの街である。「建築
と法律の本が一番よく賣れます。
思想問題や戀愛問題などの本をよ
む人は恐らくありますまい。この
大災で人間が自然界に直面しなけ
ればなりませんから、書物も現實
に役立つものしかよまれないでせ
う。小說ですか?さァそれはどう
ですかね。併し、一日からこつち、
私の店で小說をお買ひになつたの
は、あなたが皮切りですからね」
◇或る古本屋で私が芥川龍之介の
小說集を買つたときに、そこの主
人と私とは、こんな話をしたので
ある。もとより、私はその主人の皮
相な觀察に同意するものではない
が、衣食住の問題がもつと安定に
なるまでは、人間の心も荒まずに
はゐないだらうと思ふから、主人
の言葉に一面の眞理をみとめるも
のである。
×
◇每月一冊、二冊といふ風に買ひ
ためて來た私の藏書が無事であつ
たのは私にとつて何より嬉しい事
である。火が神樂坂へついたら危
いと思つたので、私の家では、ぼ
つ/″\荷をまとめだした。私の大
切な書物も全部は到底持つて逃げ
るわけにゆかない。そこで書架の
前に立つて取捨せねばならなかつ
た。私としては、どの一冊をも見
捨てたくない。その一冊にも限り
ない愛着を覺江るのである。私は
困つてしまつた。そこで私は愈々
火が迫つてきたら、思ひきつて自
分の刹那的な取捨によつて持ち出
すことにして、その儘ほつたらか
しておいた。そのうちに火も消江
てしまつたので、私は書架の前に
立つて、何かに祈りたいやうな感
激にみちた喜びを覺江たのである
×
◇さやかな秋が深い。一年で一番
氣持のいゝ秋に、こんなにも悲惨
な運命に會つたことが、堪らなく
哀しい。ことによく晴れた小春日
和などに癈墟のやうな東京市街を
歩るくたびに、人間の短い幸福を
あはれむ心が湧き上つてくるので
ある。(十二、十、三、病床にて)
(越後タイムス 大正十二年十月十四日
第六百二十號 五面より)
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