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映 畫 雜 感

◇おほくの人々のうちでは、活動

寫眞は子供じみてゐてみる氣にな

れないなどといふ人があるさうで

ある。私もそんなことを言ふ人を

知つてゐる。私はそんな人々に映

畫を無理にみて貰はうとは思はな

い。だが、映畫をそんな風にけなす

人は、餘程ひとり江らがりが、さ

うでなければ、餘りいゝ映畫をみ

たことのない人か、それとも亦、

その人の素質ネーチュアが、どうしても、映畫

をしつくりと落着いてたのしんで

ゆけないやうな、先天的な或るも

のを持つてゐる人かだらうと思ふ

◇けれども中には、ほんたうにい

ゝ映畫をみたいと思つてゐる人で

例へば今では活動寫眞が一つの營

利的なみせものであるがために、

田舎に住んでゐる人には思ふやう

にそれをみることが出來ないとか

たとひそれがたまに田舎で映寫さ

れるやうな機會があつても、まだ

都會ほどに十分に洗練された常設

館の設備がないためや、そのほか

經濟的な事情や、いろんなさまた

げのために、都會のさかり塲にあ

る、常設館でみるときのやうな、

あのなんとも說明しやうのない、

映畫雰圍氣につゝまれて心ゆくば

かり夢心地になることが出來ない

やうな立場にある人も多いことで

あらう。

◇私はそれらの人を、東京に住ん

で、自分の氣のむくまゝに比較的

安いアドミツシオンで映畫を貪る

ことの自由にできる私達に比べて

心からの氣の毒に思つてゐる。そし

て、さういふ人々が、たまに都會

へ出てきて、いゝ映畫をみるとき

の、飛びつきたいやうな歡びを私

は度々想像してみることがある。

私は夜更けなど、狭霧のいつぱい

立ちこもつたやうな、あのなつか

しい活動寫眞館から立ち出でて、

ふと、遠くの深い夜空に靑白くき

ら/\とちりばめられた星をみつ

けたとき、靑い灯や赤い燈火のい

ろをあびた群集のもみあつて歩る

いてゆく、うそ寒いアスファルト

路の高い足音をきいたとき、淋し

い音を立てゝ燃江てゐる瓦斯燈に

てらされて、こんもりと夜の影に

つきまとはれてゐる並木路に沿ふ

て、今のさきまで夢みごこちのう

ちにうつとりとしてゐた映畫の美

しさを思ひ浮べ乍ら、散歩すると

き――まあそんなときには、私は

どんなに自分が都會生活者である

ことを幸福に感じたであらう。そ

してそのあとでは、きまつて、田舎

に住む映畫の好きな人々の寂しい

心持をいぢらしく思ふのであつた

◇さて私は今こゝで、ありし日の

東京生活情緒にひたつてゐてはい

けない。私は私が前に言つた、映

畫を輕侮する人や映畫に無理解な

人々に、もうすこし、靜かに映畫に

醉つてもらひたいと、云ひたいの

である。映畫は光の藝術であると

か、無言劇であるとか、人間の魂

の肉体的表現であるとかいふ、六

づかしい、映畫の性質を考へてみ

なくともいゝから、私はたゞ映畫

をみるときには、人々はすくなく

とも、夢をみる心地をつゞけてゐ

てもらひたいと思ふのである。

◇私の考へでは、映畫は決して夢

以上のものでもなければ、夢以下

のものでもないのである。又、映畫

は子供じみてゐるとか、趣味が低

いとかいふ言葉で云ひ表はすこと

の出來るものではないのである。

そんな考へを持つて映畫をみる人

は大きな間違におちいつてゐる。

そんなひとは映畫をみて、たとへど

んなきづをみつけたり、不満を感

したりしても、何もいつてもらひ

たくない。たゞみたゞけにして、

それ以上默つてゐてもらひたいと

思ふ。

◇だが、こう私が云ふからといつて

どんなものでも映畫でさへあれば

いゝといふわけでは、もとよりな

いのである。たゞ私の云ひたいの

は、映畫をたのしむときの人々の

心持に就てゞある。映畫をみると

きに夢心地になりきることの出來

る人のみが、ほんたうに映畫と同

化してゆけると、私は言ふのであ

る。映畫にむかつて、あまりに理

智をはたらかせ過ぎると、常に失

望に終ると敢て私は云ふのである

◇で今私がのべてきたところをた

どつてみると、私はどうやら、映

畫に對する私の理想を饒舌つてゐ

るやうである。私がこれを書いて

ゐる今、すでに私は夢みてゐるや

うでさへある。私とて今までに映

畫と舞臺劇とをごつちやにしたり

小說にのぞむべきものを映畫から

要求したりしたものである。映畫

脚本が惡るかつたり、俳優が嫌で

あつたりしたゞけで、それがどん

なにすぐれた監督の藝術や素晴ら

しい撮影者技巧の美しさを持つ

てゐるものであつても、へんに自

分の見當ちがひな理智でけなしつ

けたものである。だが今では自分

の考へかたもすこし進歩してゐる

自分の考へのまちがひも氣づいて

ゐる。そして今の私は完全に映畫

をたのしむためには、どうしても

或る活動寫眞館雰圍氣といふもの

を考へのそとに置くわけにはゆか

ないといふことがわかつてきたの

である。

◇こういふと、何だか映畫の本質

そのものをないがしろにしてもの

を云つてゐるやうであるが、亞米

利加の活動寫眞館などでは今さか

んに、どうしたならば見る人の心

持を、すばらしい映畫雰圍氣のな

かに捉へこむことが出來るか、と

いふことが、研究されてゐるかを

考へれば、私の言葉もさう大し

て不思議ではあるまい。

◇で私は今、すこし贅澤に思はれ

るかも知れないが、いゝ映畫がう

つされるたびに、なけなしのポケ

ツトマネイをやりくつて、映畫と

あのなづかしい映畫の雰圍氣のな

かにとろけこみにゆくのである。

淺草公園にあつた、いゝ活動寫眞

館はすべて灰土にまみれてしまつ

たが、未だ東京には、目黒キネマ

とか、武藏野館とかいふ、大きな

ものがのこつてゐる。

◇私は地震からこつち、一月ばか

りは、映畫の夢心地に耽溺するこ

とが出來なかつた。だが、今ではも

う、もとにかへつてしまつた。私は

貪るやうにいろんな映畫をたのし

むことが出來た。テオドラ、ロバー

ツ氏の「ふるさとの家」チャーリィ

チャップリン氏の「僞牧師」、カロ

ル、デムプスカー嬢の「夢の街」な

どは、多くのうちでも、いちばん

私をよろこばしたものである。醉

はしたものである(十二年十一月稿)


(越後タイムス 大正十二年十一月十八日 第六百二十五號 四面より)


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ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵



※チャップリン監督「偽牧師」




※「夢の街」

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