理不尽なんてありゃせんよ
理不尽だと感じること、たくさんあると思います。
書いて字の如く、「理を尽くしていない」と思うことは、社会のあちこちに存在します。
職場の上司がおかしいとか、会社の方針が間違っているとか、国の政策がメチャメチャだとか、世界全体がおかしな方向に突っ走ってるとか・・・
うんうん、いろいろありますよね。分かります。
しかし、あえて言わせていただくと、この世に理不尽なことなどないとも言えます。逆に言えば、仮に何か理不尽だと感じることがあるとしたら、それはそう感じる自分自身が、「理(ことわり)」とは何かをきちんと理解していない可能性があるということです。
すべてのものは、「前の状態」から「後の状態」になります。その間にあるものが「理(ことわり)」です。この世の中は、「理(ことわり」に則って常に移ろい続けているわけです。
そして、「理(ことわり)」は、そんなに難しいことではありません。水が高いところにあれば、そこから低いところに流れるのは、自然の「理(ことわり)」です。きわめて簡単、かつ明快です。
そんな簡単な「理(ことわり)」が、尽くされていないとはどういうことなのか・・・?あらためて、考えてみます。
例えば、上司や会社がおかしい(理不尽)ということについての「理(ことわり)」を考えます。
上司や会社がおかしいという「後の状態」を考えるのならば、その会社がどのようにして成り立ったのかという「前の状態」について、真剣に考える必要があります。
当然のことながら、会社が組織として成り立つためには、お金を稼がなければなりません。今の日本は、資本主義の社会です。その資本主義のルールに則って、会社はお金を稼いでいかなければなりません。したがって、お金を稼げない会社は、その存在意義を失います。そうだとすると、資本主義のうえに成り立った会社とは何か、を考える必要があります。
そこにあるのは、私たちが一般的に考えるキレイごとだけではありません。いろいろなことがあります。
端的に言ってしまえば、利益をあげられない人は、経営をさせてもらえないのが資本主義です。近年、とくにそれは激しさを増しています。誤解を恐れずにいえば、消費者のため、社会のためという旗印を掲げつつ、それ(私たちが一般的に考えるキレイごと)をこっそり誤魔化しながら、利益をあげていくのが優秀な経営者とされていきます。私たちの身近な例で挙げると、食品添加物まみれの食べ物で溢れかえっていることを鑑みれば、その実情は一目瞭然です。
それを悪いことだとは言いきれません。資本主義社会では、効率的にお金を稼ぐことを突き詰めていくことが大事なのです。中小企業の経営者にしても、そうしたルールに従った上場企業たちと取引をしていく以上、その影響から逃れることは難しいといえるでしょう。
ここで大切なことは、「消費者の健康を守るべきだ」などという、私たちが当然の「理(ことわり)」と考えていることは、所詮、「私たちが一般的に考えるキレイ事」レベルに過ぎないということです。
そこにあるギャップが、私たちに「上司や会社がおかしい」と感じさせ、それらが理不尽だと思わせる原因となるわけです。結局、物事を順序通りに捉えて、「理(ことわり)」に従って考えたら、「上司や会社がおかしい」のは当たり前ということです。
「国の政策がメチャメチャだ、けしからん!」といった話も同様です。今の政策、たしかに酷いと思います。
しかし、そんな政策に関わっている人たちが、果たして愚かな人たちかというと、けっしてそうではありません。少なくとも、そうした政策に関わっている人たちは、一般の国民よりもずっと多くの情報を持っています。たくさんのコネクションだってあります。賢くないはずがありません。そんな人たちを捕まえて、「あいつらバカだ」とか、「国がそんな政策をするなんて理不尽だ」などと言う方がおかしいともいえます。
逆に、どんなに酷くみえる政策でも、その実、多くの国民を守るために進められている可能性だってあるのです。
国家の重要機密にアクセスできない一般国民である、無知な私たちが、政府や国といったレベルで仕事をしている人たちを非難しつつ、「あいつらはバカだ」、「そんなの理不尽だ」などと言うのは、到底、理に適っているとはいえません。私たちの生活は、彼らの努力によって、守られているかもしれないのです。
もちろん、それを手放しで喜んでいるわけにもいけません。
私たちは、もっと学ぶ必要があるのです。
直近の歴史でいえば、敗戦後の日本の政治体制がどのように築かれたのかということです。また、近代では、江戸幕府から明治政府に政治の実権が移ったときの歴史を、しっかり検証すべきです。さらに歴史を遡れば、大化の改新あたりで、日本の歴史がどう書き換えられたのかという考察まで必要になるはずです。
そうでなければ、政府や国の本質はみえてきません。
そのように真面目に勉強していけば、政府や国なるものは、結局、統治する者たちの道具であり、民衆をだまくらかしながら存在してきた実態があったことに気付きます。その視点を持つことによって、今の状態は、けっして理不尽ではないということが理解できるのです。
つまり、政府や国が、国民のための政策を実行してくれないことの方が、理に適っているということになるわけです。
「いやー、それはおかしい。そもそも、そんな資本主義が理不尽じゃないか」という指摘もあるかと思います。「政府や国が、統治者の道具だなんて、そんなこと自体が理不尽だ」といった反論もあるでしょう。
分かります。でも、ちょっと待ってください。
資本主義にしても、政府や国にしても、「前の状態」があってこそ、もたらされた「後の状態」のものです。
それでは、その「前の状態」とは何かを考えるのです。それはつまり、人類がどのように生まれてきたかということです。
資本主義にしても、政府や国家にしても、今の人類が築き上げてきたものです。そうであれば、「そもそも人類とは、どのように生まれたのか」について、考察をしていく必要があります。本当の意味での「理(ことわり)」を見出すには必須です。
「人類って、どういう存在なの?」という問いについては、いろいろなヒントがあります。
いや、もっと遡る必要があるかもしれません。
人類誕生を「後の状態」だと捉えるとすれば、その「前の状態」として、宇宙創世だって考えなければならないでしょう。
宇宙とは何か・・・大げさなことではありません。理不尽という言葉を使う以上、宇宙の「理(ことわり)」についても、当然、考えなければいけないのです。
私たちの生活は、宇宙のはじまりという究極の「前の状態」から端を発して、そこから「理(ことわり)」に則った「後の状態」として存在しているものです。
そのどこに間違いがあった???
そう考えると、きっと間違いなんてないのです。
今の世の中、ついつい理不尽という言葉を使いたくなります。しかし、その言葉を使う以上、「理(ことわり)」とは何かを真剣に考えてみることも重要です。
そして、考えれば考えるほど、理不尽という言葉を使ってしまう自分自身の方が、本当の意味での「理(ことわり)」を理解しておらず、その発言自体が「理(ことわり)」を尽くしていない行為である可能性が出てくるのです。
もしそのことに気付くと、この世に理不尽なことなんてないという結論に行きつくことでしょう。すると今、目の前で起こっていることがすべて、「水が高いところから低いところに流れていく」ように、至極、当たり前のことにみえるはずです。理不尽だらけだった社会でも、見え方はだいぶ変わってくるでしょう。
以上、この世の中には理不尽なんて存在しないかもですよ?という話でした。
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