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手間、無駄、余白を愛せ


効率を求めて省かれた「手間」、最短経路でたどり着きたいから失われた「無駄」、そんなことをしてる暇はないと塗りつぶされた「余白」。

でも本当に、手間は惜しまなくていいのか、無駄は省いていいのか、余白は黒く塗りつぶしたほうがいいのか。

手間、無駄、余白とは愛すべき三要素だと思う。


一つ目、手間とは何か。

手間:そのことをするのに費やされる時間や労力。

僕が手間をかけるもの、それはフィルムカメラだ。
OLYMPUSのOM-1が愛機だ。宣言したところで他のカメラは詳しくない。

それどころかOM-1の使い方も事細かく聞かれてしまったらわからないことだらけだ。未だに使い方がわかっていないボタンもある。憧れの人が使っているからという理由だけでOM-1にした。

フィルムカメラはデジタルと違って、カメラとレンズがあれば撮影できるわけではない。他にフィルムを購入し、そのフィルムをカメラに装填して、決められている枚数分のシャッターを切る。

これで終わったかと思いきや、今度はフィルムを取り出してそれを現像するという段階が待っている。デジタルのようにすぐ確認ができない。このもどかしさが愛おしいのだ。

フィルムカメラは手間しかない。正直お金もかかる。でも手間をかける価値がそこにはある。

なんだってそうだ。例えば、今は家から出なくても生活ができる。全部AmazonやらUber Eatsやらに頼めば向こうからお迎えが来てしまう。

ちがうちがう。ちゃんと外に出なきゃ。その手間は大切にするべきだ。一歩外に出てみるとどうだろう。外の温度感を味わえたり、思いがけない出会いがあったり、運良くタイムセールに遭遇したり、帰り道で何かを思いついたり、ちょっと奮発して買いすぎたお菓子を結局食べなかったり。

全てが愛おしい。外に出るという手間をかけただけで本来出会えなかった出来事が生じる。手間を惜しまない、大事なことだ。


二つ目、無駄とは何か。

無駄:役に立たないこと。無益な行い。

役に立つか立たないかは自分が決めることだ。事実は変えられないが、解釈はいくらでも変えられる。

少し馬鹿馬鹿しい話をするが、最近こんな商品を買った。

スーパーで目についた瞬間、衝動買いしてしまった。衝動買いというには安い代物だけど。

母に見せたところ、明らかに嫌な顔をされた。母はケチでこんな商品など絶対に買わない人だ。

僕は母に、この「ポテトング」がいかにポテトチップスを取りやすく食べやすくしてくれる商品なのかを、商品開発部のように説明した。

置いたときに先端がテーブルに付かないところは特にポイントが高い。「ポテトング」というネーミングも可愛らしい。こういうドン・キホーテにありそうなヘンテコなモノが僕は大好きだ。ドンキは無駄の宝庫だ。激安の殿堂から無駄の殿堂に名前を変えてほしい。

たった259円。これを無駄と捉えるか否かは自分の裁量にかかっている。何度でも言いたい、解釈ならいくらでも変えられる。この世に無駄なことなんてひとつもない。


最後の要素、余白。余白と聞くと思い出すnoteがある。

大好きだ、このnote。さくっと読める文量だからぜひ読んでほしい。

中身はからっぽのまま、余白という外枠だけを大切に守る。そうすることで何か新しいことを始められたり、何もしない無為な時間を過ごせたり、たまに思いもよらない自分に出会えたりする。

この通りだと思う。余白のある生活を営むことは自分で自分に安定剤を与えているようなものだ。

僕はなんでもない、ゆっくりする時間を愛している。メルヘンチックにいえば、浮いてどこまでも漂うような、ふわふわした雰囲気。けいおん!的に言えばふわふわタイム(古い?)。

自分の責務をどこか意識の遠い方に置いて、考えることをやめる。いわゆるぼーっとする時間。

僕が喫茶店で愛する組み合わせ、それは珈琲とチーズケーキだ。チーズケーキのツンとした酸味と、濃厚なねっとり感と共に珈琲を飲む。目の間の珈琲とチーズケーキだけに集中し、ただただ時間だけ過ぎていく。

食べ終わった僕はそこから余白の時間を楽しむ。珈琲とチーズケーキの余韻に浸りながら、あれこれ思いを巡らせる。そうすると喫茶店を出るころには心が落ち着きを取り戻し、帰り道のステップが自然と軽くなる。


手間は省かないほうがいい。無駄なことは思う存分やってみたらいい。余白を埋めるのではなく、そのままにして浸ったほうがいい。

手間、無駄、余白を愛する人間でありたい。

このnoteも無駄かもね。それでも愛しているよ。



頂いたお金によってよもぎは、喫茶店でコーヒーだけでなくチーズケーキも頼めるようになります。