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【番外編④】『軍靴のバルツァー』~反復する「戦争」の世界史~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『軍靴のバルツァー』1巻表紙より

 本記事シリーズ4回目の番外編です。

 これまでの番外編は、とりあげたい時代・地域について該当する歴史マンガが少ない場合に、類似のフィクション作品を紹介するものでしたが、今回は少し趣旨が違います。というのも、今回は特定の時代・地域の話をするのではなくて、ここまで追ってきた歴史全体を、ある別の視点で語り直してみたいからです。

 その視点とは「戦争」。現代においてなお私たちを覆う脅威についてのお話です。


1.人々と戦争との「距離感」

人類の歴史とは戦争の歴史である。そう言っても過言にはならないでしょう。私たちはこれまで先史から人類の歴史を追ってきましたが、その歴史が大きく動く時、そこでは大抵の場合血が流れています。(西)ローマ帝国の滅亡は異民族の軍事侵略によるものです。神の預言を背負ったジャンヌ=ダルクが英雄となったのは、100年続いた悲惨な戦いの最終盤においてのことでした。フランス革命では王の血だけでなく、周辺国からの侵略を前におびただしい市民の血が流れています。私たちの歴史は、度重なる戦いと流血の上に成り立っているのです。

 しかし一口に戦争といっても、よく目を凝らしてみるとその中身は時代によって違いがあります。一番目立つ違いと言えば武器の発展だと思いますが、本書にて主にヨーロッパの歴史を指標にして注目してみたいのが、私たち一般市民との戦争との「距離感」とも言うべきものです。戦争が私たちにとって「他人事」なのか、「自分事」なのかと言い換えてみてもいいでしょう。

1―1.古代における戦争 

 原初において、戦争は人々にとって究極に「自分事」だったことでしょう。例えば人々が狩猟生活をしている時代に、狩場を別のグループの人々が奪おうとしてきた時。これを止める武力を持っているのは、狩猟のための武器を持っている自分たち自身しかいません。だから自分の生活を守るには、自分自身が戦争に身を投じるしかない。そういう時代です。

 しかし時代が下り社会が発展してくると、人々は分業体制を発展させていきます。農業を担う人、農具などの道具を作る人、政治をする人、そして、外的と戦う人。役割を分担することで社会は効率的に動くようになっていきますが、その代わりに戦争に関わる人も限られていき、その意味で一部の人にとっては、戦争は「他人事」にもなっていきました。

 ただし、古代におけるその例外とも言えるのが、主にギリシャにおいて発展した「ポリス」(都市国家)です。当初ポリスでは貴族が軍事を担っていましたが、経済発展に伴い一般市民が武器を持つようになると、徐々に市民が戦争に参加。やがて重要戦力となった市民は政治的な発言力を強め、これがポリス民主主義の成立へとつながっていくのです。逆に言えば、戦争に参加しポリスの防衛に貢献するからこそ、人は市民権を得ることができる。それが古代ギリシャにおける民主政なのであり、この制度において戦争は、一般の人々にとって再び「自分事」になったのです。

 なお、古代ギリシャが舞台の『ヒストリエ』では、強大な権力を持った政治家がただの一兵卒として戦争に参加する描写があります。「国防を担うからこそ市民たる権利を得る」というポリス民主政における過酷な平等がここにあるのです。

1-2.中世~近代前半における戦争

 しかし民主政が様々な原因で衰えていくと、こうした「市民権の保有=戦争への参加」という考え方は揺らいでいきます。激化していくポリス間の抗争の中で、給料と対価に兵士として働く「傭兵」の使用がだんだんと一般的になり、この流れはその後君臨した古代ローマ帝国においても変わりませんでした。

 さらにローマ帝国の滅亡や異民族の侵略を通して、人々の生活は自給自足の農業経済に退化。一般の人々は基本的に食料生産の担い手となる一方、戦争の担い手に収まったのは、国王から土地を与えられる代わりに軍事力を提供する騎士でした。戦争が勃発したら、戦場に出て指揮を執るのは騎士です。兵士を徴発するのも、国王ではなく、土地とそこに住む人々を直接支配する騎士です。この時代において戦争とは、一般の人々にとっては領主たる騎士を通して参加させられる「他人事」に戻っているのです。

 状況が変わるのが近世です。十字軍派遣による疲弊のほか、貨幣経済の発展によって農民が貨幣を貯めて自立できるようになったこと、国王自ら貨幣をもって傭兵を雇えるようになることで、騎士の地位が相対的に低下。さらにこれに決定打を与えたのがこの時代に本格的に起用されだした火砲(鉄砲・大砲)であり、火器戦争においては、火砲の前にはなす術がない騎兵ではなく、「いかに多くの歩兵を集めて鉄砲を撃たせるか」が重要なファクターの一つになります。そして多数の兵を雇えるほどの財力を持っているのはやはり一騎士・一貴族ではなく国王であり、戦争は騎士同士の争いから、国王が整備した大規模な常備軍同士のぶつかり合いへと移行していくのです。

 ただこの時代になっても、軍事の担い手はあくまで国王から給与を受ける職業軍人や傭兵。その意味では、一般人からするとまだ戦争は「他人事」と言えるものでした。ただし、戦争の大規模化や規律の整備不足ゆえにこの時代は戦争が長期化しやすくなり(三十年戦争等)、その意味で、戦争が一般の人々に与える影響は大きくなっているとは言えるでしょう。

1-3.近代後半~世界大戦における戦争

 この状況を大きく変えたのがフランス革命です。

 市民革命はこの頃既にイギリスで起こっており、その意味でフランス革命は「初めて」の出来事ではありません。しかしイギリスの革命と大きく異なる点として、フランス革命では王権の打倒だけではなく、革命潰しを狙う周辺国からの防衛が大きな課題となりました。せっかく王権を打倒し主権が一般市民の手に渡ったというのに、この革命が潰されては再び主権が奪われてしまう。ゆえにフランス市民は自ら武器をとって義勇兵となり、戦争に身を投じたのです。主権が人々の手に渡ったとき、戦争もまた「自分事」になるのです。

 その後ナポレオンによる侵略によって逆に国家存続の危機を迎えた周辺国でも、国家の統一運動が進展。ここにフランス革命の影響を受けた自由主義的な改革の進展が重なり、「俺たちの国家を、王や貴族の特権ではなく俺たち自身で支える」という感覚が醸成されます。これは、産業発展や帝国主義下の海外進出のために市民を働かせたい政府としても都合のよい考え方であり、義務教育の普及や社会保障の整備といったアメを駆使しながら、「国民みんなの協力で国家を盛り上げていこう」という考え方が全面に押し出されるようになります。まさに『ハイパーインフレーション』のページで述べた「ナショナリズム」です。

 この動きが極まったのが、『白い艦隊』のページで見たきな臭い国際情勢が遂に極点を迎えた、「第一次世界大戦」(1914)です。ヨーロッパが「英・仏・露」側「ドイツ・オーストリア」側の二つの派閥に分かれる中、争いの最前線だった東欧でオーストリア皇太子が暗殺されます。これが導火線への着火となりまして、オーストリアが暗殺を理由にして相手側に宣戦布告すると、この戦いに同盟関係を理由としてヨーロッパ各国が参加。そしてこれに各国の植民地が徴兵等により巻き込まれることで、全世界に影響を与える大戦争へと発展するのです。

 ここで効いてくるのが、先ほど述べた「国民みんなの協力で国家を盛り上げていこう」というナショナリズムです。戦争が長引くと市民への負担も当然大きくなるわけですが、「国家=市民」なのですから、市民は当然この戦争に参加しなければならなりません。男は徴兵され戦場で銃をとり、女は工場で兵器を生産する。そういう「総力戦」の体制を作り上げることで、国家はこの大規模な戦争でなんとか勝ち残っていく。そういうことが「国民の義務」として強制されるのであり、このとき戦争は、あらゆる市民にとって否応なく「自分事」になっているのです。

 そしてこの大規模動員に重なったのが武器等の発展です。鉄道等による大量動員の実現。戦車・戦闘機・毒ガスなどの新兵器による大量殺戮。文字通り桁違いの死者を生む、現代の私たちがイメージする「戦争」がここに姿を現し始めたのです。

 結局第一次世界大戦は、国民負担が頂点に達したロシアとドイツで革命が起きる等の事件を経て、ドイツ・オーストリア側の敗戦で決着します。戦死者は約3000万。この惨劇はヴェルサイユにて講和条約が締結され幕を閉じるのですが、その後わずか20年で再び世界大戦(第二次世界大戦)が勃発することは、ご存知の方も多いことでしょう。

1―4.世界大戦のその後

 ナショナリズムによる大規模要員を通した戦争の悲劇、そして第二次世界大戦末期で開発された核兵器の恐ろしい威力は、さすがに世界を反戦への努力へと向かわせます。国際的な平和維持機関として国際連合が組織されたほか、二大核兵器保有国である米国・ソ連を中心に核兵器の削減が進展。結果的に、多数の国の市民が大量に動員されるような大戦は、1945年の第二次世界大戦以降起きていません。また、二度の大戦を通して盲目的なナショナリズムへの反省も叫ばれるようになり、戦争はどこか、私たちにとってあまり身近ではない「他人事」へと戻っていったのではないでしょうか。

 しかし、近年では新しい動きも見られます。一つは民間軍事会社の動きが目立つようになったことです。20世紀末以降本格化したのは、攻めてくる国家を迎え撃つのではなく、遠方の「ならずもの」を叩くテロとの戦争であり、国民の動員に理由付けができません。そこの穴を埋める存在として、こうした会社が活用されるようになっており、例えばロシアの軍事会社「ワグネル」のアフリカ等での暗躍はしばしば報道されるところです。世界史上様々な場面で出現した「傭兵」が、今再び表舞台に立とうとしているのです。

 もう一つは、米中の覇権争いやロシアによるウクライナ侵攻に代表される、国際情勢の著しい悪化。半世紀以上「大戦」は起きていないものの、仮に戦争に突入すると世界を巻き込みかねないような大国間の関係がここまで大きく悪化することは、少なくともソ連の崩壊以降は初めてのことです。日本の近くでも、中国による台湾侵攻の懸念が叫ばれるなど情勢は悪化しています。そうした状況の中、戦争はこれまでのように、どれほど「他人事」のままでいてくれるのでしょうか。

 前提として、戦争なんて起こらないのが一番です。戦争のことなんて考える必要はない、そんなことが言える状況が続くのが理想です。

 しかしながらこの歴史を振り返ってみると、戦争と私たちとの「距離感」は、振り子のように反復して揺れ動いていることが分かります。戦争は職業軍人や傭兵といった自分以外の誰かが担ってくれるものだったり、国民総出で担わなければならないものだったりする。あるいは、エラい人の命令で強制的に参加させられるものだったり、自ら武器を握って参加するものだったりする。さらには、その戦争に参加するか否かが、市民権の有無、あるいは「非国民かどうか」といったその人の生活基盤やアイデンティティーを分ける分水嶺になってしまったりする。あなたが直接戦争に参加するか、あるいは戦争に参加したくなくとも、制度や文化がそうさせてくれるのかという問題は、時代を下るごとに一方向に変化しているのではなくて、絶えず揺れ動いているのです。

 だから一口に「戦争を起こさない」、「戦争に関わりたくない」といっても、そのためにとるべき手段もまた、時代によって異なるのだと思います。今もし戦争を起こさず、あるいは戦争に関わらないようにするためには、自分の国の外交を変える必要があるのか。制度を変える(あるいは維持する)必要があるのか。はたまた、私たち市民の中の空気を変える必要があるのか。戦争を抑止するならば、あるいはそれに関わらないようにするならば、単に「戦争なんてないほうがいい」「関わりたくない」という原則論をベタに振りかざすだけではなくて、その時その時の状況から戦争との「距離感」を捉え、講ずべき処方を都度考えなくてはならない。私たちは戦争の可能性からただ目を逸らすのではなくて、その「振り子」が今どこにあるのかを、見据えなければならないのだと思います。

2.『軍靴のバルツァー』が問う戦争の歴史観

 マンガの話に入る前のお話がひどく長くなってしまいました。こうした「戦争の歴史」に対する問題意識が織り込まれた作品として紹介したいのが、中島三千恒先生作『軍靴のバルツァー』です。 

 主人公は架空の軍事国家「ヴァイセン王国」の軍人であるバルツァー。戦功を重ねて軍人として出世ルートに乗っていた彼は、突然南方の小さな同盟国「バーゼルランド邦国」にて士官学校の軍事顧問となることを命じられます。左遷とも言える突然の人事異動に戸惑うバルツァーですが、バーゼルランドの軍事後進国ぶりに衝撃を受けた彼は、エリート軍人としてのプライドに押されて兵士の教育、軍事の改革に取り組むことに。しかしこの過程でバーゼルランドの第二王子の信任を得たことで、バルツァーは小国バーゼルランドの取り込みを狙うヴァイセンと、これと対立する大国「エルツライヒ帝国」との政治闘争に巻き込まれていくのです。

 バーゼルランド内の政治闘争、その裏側で糸を引く大国の利益の絡み合い、そしてその極点としての戦争に至るドラマがしばしば評価される本作ですが、「世界史」という観点から見て本作が面白いのは、まずその物語が19世紀後半の「ドイツ帝国」成立史のイフとして読めるところです。

『ハイパーインフレーション』のページで見たとおり、「ドイツ」なる国の成立はこの地域の北西にあった「プロイセン王国」が主導したものです。もともとこの地域には「神聖ローマ帝国」という形だけの国が存在し、実質的にはその帝国に属する複数の王国による分裂状態が続いていましたが、プロイセンがこれらの統一を企図。そして、かつて神聖ローマ帝国の帝位を独占していたハプスブルク家の「オーストリア帝国」と統一の主導権を争うことになるのです。すなわち、「プロイセンとオーストリア、どちらがその他小王国を取り込んで統一国家の盟主となるか?」という政治闘争がここで始まるわけですが、この流れがそのまま『軍靴のバルツァー』のプロットになっていることは明らかでしょう。ヴァイセンはプロイセン、エルツライヒはオーストリアにあたり、バーゼルランドはその他小王国の一つです。

 しかし、本作はそこから実際の歴史とは異なる方向に進みます。バルツァーの活躍等を通してバーゼルランドは意外なほどに独立国として持ち堪えますし、逆にヴァイセンを見ると、実際の歴史でもこの頃胎動していた社会主義運動が盛り上がりつつあり、国家の先行きが怪しい。本作の歴史はいかにして史実と異なる結末を迎えるのか、楽しみな作品です。

 そしてもう一つ本作について強調したいのが、本作は重厚な政治劇・戦争劇を描いていながらも、自らそのドラマを一歩引いたところから眺めるような、冷めた視点を同時に持ち合わせているということです。

 カギになるのは、本作の重要キャラであるリープクネヒトと言う男です。バーゼルランドを巡る大国の闘争の裏にはこの男の暗躍がありまして、彼はエルツライヒのスパイとしてバーゼルランドの権力中枢に侵入、当該国のヴァイセン側からエルツライヒ側への寝返り工作を図ります。この結果バーゼルランドを巡る国際関係は不安定化し、結果戦争状態に突入していくのです。

 しかし彼は本作において、決して「戦争を煽る愉快犯」というような位置づけではありません。最初はその真意が描かれない謎の存在として描かれていくのですが、徐々に明らかになっていくのは、彼がむしろ戦争の無い世界を実現しようとしていることです。

 具体的には、やがて起こると分かっている戦争があるのであれば、彼はそこに至る政治闘争を加速させることでその戦争をさっさと勃発させて、そしてさっさと終わらせてしまう。そして、その戦争の結果構築されるはずの安定した国際体制・統治システムを、できるだけ早期に実現させてやる。そういう「時計の針を進めて、やがて訪れるはずの平和な未来を本来より早く到来させる」というかなりマクロな取組を、彼は行っているのです。だから、本作は本格的な政治劇・戦争劇を各蚊帳らの事情・心情に寄り添って熱く描きながらも、リープクネヒトを通して、それらが結局のところよりよい未来の実現のための糧でしかない、という冷めた見方を同時に露わにするのです。目の前のドラマに耽溺するだけではなく、そういう大局的な視点と言いますか、クールさが併存している点が、本作の中でも私が特に好きなところだったりします。

 ただ、このリープクネヒトの取組には落とし穴がありまして、それはお気づきのとおり、「戦争が終わったとして、必ずしもその戦争を反省したよりよい体制が実現するとは限らないのでは?」という疑念です。

 リープクネヒトが煽っていたヴァイセン統一(=ドイツ統一)を巡る戦争は、現実ではプロイセン・オーストリア戦争(1866)、そしてプロイセン・フランス戦争(1871)として実際に起こっているのですが、その後凄惨な世界大戦が二度も起こっていることを私たちは知っています。また、一口に「戦争」といっても、「一般市民との距離感」という視点に立ってみると、その歴史は一直線ではなくむしろ反復している、ということは上記で述べたとおりです。であれば、リープクネヒトの思い描く「戦争をしてしまう未発達の社会→戦争をしない成熟した社会」という一直線の成長というのは、私たち人類の辿る途のイメージとして、本当に正しいものなのか。それは、確かに「戦争の歴史」の実像を捉えているのか。リープクネヒトという男はクールに見えて、彼こそが実は人類というものに対して過度なロマンを投影しているのではないか。そういう視点で、本作を読んでみるのも面白いと思うのです。

次回:【現代②】『満州アヘンスクワッド』~「眠れる獅子」中国の受難~ 


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