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【読書感想文5】『ホモ・デウス』(+本書とFGO第2部第5章との関係についての妄想)

 本書は、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが著す、人類の未来に関する壮大な検討です。全世界で600万部突破というベストセラーです。
 ホモ・サピエンスの歴史をその誕生から順に振り返り、今ホモ・サピエンスが「ホモ・デウス」(「神のヒト」)へと変化しようとしていることを、情報技術とバイオテクノロジーの発展という観点から説明します。そのホモ・デウスへの「変化」とは、果たして「進化」なのでしょうか。それは「退化」どころか、ホモ・サピエンスの終焉をも意味しているのではないか。その可能性に、本書は歴史学者としての膨大な知識を武器にしながら、淡々と、しかし鋭く切り込んでいくのです。

0. プロローグ ~人類の次なる課題~

 これまで人類は、3つの大きな脅威にさらされてきました。飢饉、感染症、戦争です。
 人類は今や、これらの脅威を克服しつつあります。飢饉で苦しむ人はまだ多くいるものの、米国では飢餓ではなく肥満で死ぬ人のほうが圧倒的に多い時代です。感染症は今まさに世界が現在進行形で苦しんでいるわけですが、中世のペストにように、人口の半分を失うような事態にはなっていません。戦争も、第二次大戦以来、大国同士の熱い戦争は鳴りを潜めつつあります。人類は、何万年も自らを苦しめてきた災いから、ついに解放されようとしているのです。

 では、人類は次なる課題として何に取り組むのか?それは、不死、幸福、神性です。
 バイオテクノロジーの発達は、人体の強化を可能にしつつあります。今では義足といったハンディキャップの克服に留まっているものが、健康な人体の強化、長寿化に転用されていくかもしれない。また、発達したAIは人間に人間自身よりも優れた選択を提示できるほか、抗うつ剤のように、生化学的に人間の情動をポジティブに操作できる技術も発達するなど、人間をより幸福にできるテクノロジーが出現している。そうして、身体と情動をアップデートされた人間は、やがて神に近い存在になれるやもしれません。
 

 しかし、それは手放しで喜んでいいものなのか。その問いに取り組むのが本書の趣旨です。

1. 人間が世界を支配できた理由

 本書はその問いに取り組むため、ホモ・サピエンスのそもそもの登場にまで歴史をさかのぼります。そして、なぜサルの仲間でしかなかったヒトが、万物の霊長としての地位を確立することができたのかを検討します。

 思えば、この世界は「人間は他の動物より優れており、他の動物を支配してもいい」という前提の上に成立しています。例えば畜産業では、ただ太り、子供を産み、屠殺されることに特化した生き方を強いられている動物たちがたくさんいます。動きたいのに身動きの取れない狭い柵の中に入れられ、せっかく産んだ子供ともすぐに引き離され、最後は容赦なく殺される。人間にあてはめてみれば余りに残酷な行為を、「人間は他の動物より優れている」という理論で平気でやってのけるのが今の人類です。

 なぜ、「人間は他の動物より優れている」のか?この問いに対する答えとして、人間の心や意識を持ち出す人がいます。動物は生きるだけの畜生だが、人間には心や意識がある。だから、動物には何をしてもいいのだと。しかし、動物と人間は生化学的に同じ仕組みのものであることは、科学的に証明されており、人間が持つ心や意識を、動物が持っていない言われはありません。そもそも、心や意識とは何なのか、まだ科学的に証明されていません。怒った時は体はこう動き、過去を思い出しているとき脳はこう動く、というのはバイオテクノロジーの発達でかなりわかっていますが、ではそのような脳や体の生化学的な動きの中で、どうして「心」や「意識」という目に見えないものが浮かび上がるのかは、まだ科学は何も説明できていないのです。

 では、万物の霊長としての人間と、動物の命運を分けたものは何なのか?それを筆者は、「意味のウェブ」に求めます。人間は、価値観や定義、目に見えない概念を共有することで、類を見ない規模で、互いに協力しあう。そのことで、非常に大きな力を持つことができるのです。例えばロシアでは、長年ごく少数の貴族が多数の農民たちを支配していましたが、この構造を、イデオロギーという絆で結ばれたごく少数の共産党員が打ち破りました。古代エジプトでは、ファラオの威光をもって、贅沢な暮らしするファラオを尻目に多くの人民が身体を過酷な労働に投げ打ち、ピラミッドという信じがたい巨大建設物を完成させるに至りました。そして現代では、ただの紙切れを「紙幣」と名付けて多大な価値を与え、これをもって世界を包摂する経済圏を確立しました。イデオロギーも、ファラオの威光も、貨幣も、人間が勝手に決めた「意味」、すなわち虚構であるのに、その「意味」が世界に張り巡らせるウェブのおかげで人間は、例えば他の動物が見せるような群れとは桁違いの規模の連携を達成し、この世界を支配するに至ったのです。

2. 「神」という物語から、「人間」という物語へ

 人間が初期に発明した最も重要な「意味」、それは「神」でした。最初期の都市国家をとっても、ウルクは神の威光を根拠にして統治されていました。神が言うから、あなたはこの仕事をしなければならない。神がそう命じるから、あなたは税を払わなければならないというふうに。「神」という「意味」、もっというと「物語」のおかげで、人は都市という大規模なつながりを保つことができたのです。
 その規模をさらに爆発的に広げたのが、貨幣と文字の発明です。貨幣は、初めて会う信頼関係のない人間との取引を可能にします。また、文字の発明は、人間が自分の脳で処理できるよりもはるかに大量の情報を保管することを可能にし、「物語」の大量蓄積、そして文書を媒介とした広範囲な伝播を可能にします。その代表が、聖書です。聖書に書いてあることは、全て揺るぎない事実として強大な権威を持ち、人は何を判断するにつけても、この聖書を参照すればいいのです。聖書の持つ、人間を連携させる強大な力は、中世ヨーロッパで、目立った成果を挙げなかったにも関わらず、神の威光を根拠に幾度となく繰り返された十字軍を見ると明らかでしょう。
 

 こうして人間は、「神」という物語に基づいて大規模な連携を成し遂げ、種として他の動物の追随を許さない発展を遂げることができました。しかし、科学が発展してくると、この「神」という存在の威光は陰りを見せるようになります。ダーウィンの進化論は、人間が神の創りたもうた神の似姿などではなく、ただのサルの仲間であることを明らかにしました。物理や化学の発展は、「神」という数学的に説明できないものの存在を危ぶませるようになりました。もはや、「神」は人間を連携させるに足る威光を持たなくなったのです。
 では、人間を連携させる次なる「物語」、すなわち次なる「宗教」は何か?それは、人間至上主義です。人間が生きるのは、神が人間の生きる意味を与えてくれるからではない。もはや人間自身が、人間に意味を与えることができる。神ではなく人間自体が素晴らしいのだから、人間は人間のために行動するのが善である。これが、人間至上主義の趣旨です。
 例えば、かつて人は悩みを抱えると教会に行き、神父から神の教えを請いましたが、現代のセラピストは、「自分の本当の心の声を聴きなさい」、なんてことを言います。神の意見ではなく個々の人間の意見が大切だから、国民が投票して政治を進める民主主義が礼賛されます。優れた商品とは、宗教的なモチーフをたたえたものではなく、より多くの人間を惹きつけ、より多くの売上を上げた商品です。この世界の価値は、神を本位とするものから、人間を本位とするものへとシフトしていったのです。
 20世紀に世界を分断した自由主義、社会主義、そして進化主義も、全てはこの人間至上主義の変形でしかありません。相成れないように見えるこれらのイデオロギーは結局のところすべて人間を大事にしています。せいぜい、個々人を重要視して個人の自由を掲げるか、人間個人に社会が与える影響を重要視して党や組合の意義を掲げるか、超人の出現を重視して人間の選別を掲げるか(この極端な例がナチス)といった違いしかないのです。そして20世紀末についに勝利したのが、自由主義でした。


 なぜ、科学が崩した「神」という宗教の後釜として、「人間至上主義」、そしてその中でも自由主義が勝利したのか。それは、現代の科学技術とそれによる社会発展と一番相性がいいのが、この自由主義という「宗教」だったからです。個人の嗜好を神聖視する自由主義は、自由経済による経済発展とかみ合う。監視を排する自由主義は、監視を重視する社会主義よりも、20世紀後半以降の情報技術の縦横無尽な拡大とかみ合ったのです。

 そう、科学と宗教は、よく言われるように反発しあうものなどではない。人間の連携を支える宗教は、科学によってその牙城を崩されるも、その後その科学を最も効果的に導くことができるように姿を変え、そしてその新たな宗教のおかげで、科学はさらに発展していくのです。科学と宗教とは、実は互いに影響を与え合い互いを支えあう、夫婦のような関係性を持っているのです。

3. 物語は「人間」を追い越していく

 しかし、そんな人間至上主義という宗教も、いまやその地位を脅かされつつあります。科学と宗教が夫婦であるならば、人間至上主義という宗教は、もはや今の科学の発展に追いつかなくなっているのです。では、人間至上主義を振り切りつつあるその新たな科学とは何か。それは、バイオテクノロジーとAIです。

 バイオテクノロジーは、人間がそれ以上分割できない神聖な単位ではなく、電気信号で動くサブシステムの集合でしかないことを暴こうとしつつあります。私たちの活動の仕組みは、全て生化学的に説明ができます。ある刺激を受けると、この神経が反応して、脳のこことここで微弱な電流が流れて、それによってこういう命令を身体に伝えて、だから身体がこう動く…というふうに。であるならば、人間に、自由意思というものはあるのでしょうか?モノが地面の引力に引かれて落下するように、一見「自由」かに見える私たちの意思や選択も、実は数学・科学で計算できる一定法則のもとに動いているに過ぎないのではないでしょうか?あるいは、元素の崩壊のように、ランダムな結果にすぎないのではないでしょうか?さらに、人間の意思が科学的に説明できるというのは、科学を使って、人間を思い通りに操る方法がわかるということです。現に、こういう化学成分を摂取すればうつを克服できる、という薬はすでに開発されています。こうなると、「私たちは自分の意思で自由に行動できる」という、自由主義の根幹が崩れていきます。


 また、AIの出現は、人間という存在の必要性を減退させます。タクシードライバーは自動運転の自動車に、兵士は自動飛行のドローンに、トレーダーは証券取引AIに、医師は自動診断システムにとってかわられていく。作曲や詩といった芸術分野ですら、人間の芸術家が創作したものと見分けがつかないようなすばらしい作品をAIが制作できるようになっている。多くの分野で、人間という存在が不要になっているのです。個々の人間を大事にしなくても、社会経済はうまく回っていくようになっていくのです。であれば、人間個人を神聖視し、自由や基本的人権といった様々な権威を人間個人に与えてきた人間至上主義、自由主義というのは、社会経済にとって、不要な哲学になります。
 

 こうして、科学は人間至上主義という宗教と別離します。もはや、科学にとって人間至上主義は時代遅れなのです。では、バイオテクノロジーとAIという新たな科学と結ばれる、新たな宗教とは何でしょうか?その候補として、作者は2つの宗教を挙げています。

 一つは、神なる人間「ホモ・デウス」を目指す「テクノ人間至上主義」です。人間至上主義の残滓が残るこの宗教は、発展する科学を活用して、人間そのものを作り替えさらなる幸福を目指そうというものです。義足などの発展型としての人工強化身体パーツ、生化学を活用した、化学物質による人間の情動のコントロールにより、人間という種族をさらなる高みへ押し上げようというのです。しかしながら、テクノ人間至上主義の構造的な欠陥として、自己の幸福のために自己の操作を許容してしまうと、そもそも「自己の幸福」とは何だったのかを、定義できなくなります。操作された時点で、その自己はもはや別の自己であり、当初に元々の自己が目指していた幸福の形が、既に見えなくなってしまっているからです。幸福を目指すことで、そもそもの「幸福」の定義がわからなくなる。テクノ人間至上主義には、そんな落とし穴があります。


 もう一つはデータ教です。生物は電流をもって動く一定のアルゴリズムを持ったサブシステムなのだから、そのサブシステムの仕組みを示すデータがあれば、人間の全てがわかる。AIは様々なデータをもとに自ら学習し、その質をみずから高めていく(機械学習)し、ビッグデータを活用することで、AIの個々の判断はますます制度が高まる。政治や経済に関するデータさえあれば、個々の人間がちっぽけな脳を使って投票するよりも、より成功率の高い政治を実現できる。SNSのつぶやきで「くしゃみ」や「頭痛」といった投稿が増えたデータがあれば、医師たちよりも早くインフルエンザの流行を捕捉できる。DNA情報と健康の関係を示すデータが大量にあれば、あなたがこれからかかる病気を予言できる。データこそ、全ての力の源泉なのです。だから私たちは、データの蓄積を最高善として生きなければならない。私たちの生活や存在そのものに意味はなく、その生活をSNSでつぶやいてデータにすることで、初めて私たちの生活や存在は意味を得るのです。人間という存在を神聖視する人間至上主義は、ここでは見る影もありません。


 では、人間はそうした宗教が世界を覆うがままにしていいのでしょうか?人間は今や、データや人工アルゴリズムへと、その権威を明け渡しつつあります。それに抗いたいのであれば、今すぐ思考を起動させるべきです。バイオテクノロジーとAIが地滑り的な世界変動を起こした根底にあるのは、「人間はデータとアルゴリズムに因数分解できる」という命題です。これは本当に真なのでしょうか?人間には、データとアルゴリズム以外の要素(例えば意識、主観的経験)は本当にないのか?バイオテクノロジーとAIは、本当に人間を幸せにするのか?大量のデータにとらわれ目を回している私たちがふと立ち止まり、この問いを俯瞰するようになること。それこそが、本書の一番の目的なのです。

4. 一口感想

 めちゃくちゃ面白かったです。3月末、コロナで様々なお店が閉まる直前、巣ごもりのために本屋で深く考えず手に取ったのがこの『ホモ・デウス』だったのですが、いやはや、知的刺激にあふれる体験となりました。感想を3つ、手短に述べます。

 まずは、著者の知識量の凄さと、本書の構造の美しさ。
 本作はハードカバー上下巻で約500ページにわたりますが、その要点だけをまとめようとするならば、たぶん100ページもあれば十分です。内容が薄い、と言っているわけではなく、論理展開に寄り道があまりなく、一本道で結論まで突き進むきれいな構造になっているからです。では他の400ページで何をしているかというと、全部論旨の正当性を示す具体例の紹介なんです。高校の現代文でよく言われる話ですが、なぜ論説文で具体例を出すかというと、一つは言いたいことをわかりやすく伝えること、もう一つは、言いたいことに説得力を持たせることです。本書は、著者が主張を進めるたびに、なぜそのようなことが言えるのか、その主張の後ろ盾となる歴史上の具体例をこれでもかというほど提示します。例えば人間の「意味のウェブ」の意義を説明する際、そのウェブが人間に与える力の大きさを示す例として十字軍やロシア革命、さらにはルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊のドラマなど、様々な歴史上の出来事を引合いに出し、かつ、そのそれぞれを非常に詳しく、魅力的に説明してくれます。もう、本書の論旨抜きにして、この具体例だけ読んでるだけでも正直面白いです。そんな質・量ともに充実しすぎた具体例に支えられながら、著者の論旨が一本のまっすぐな線となって伸びている。その本書の構造の美しさに、感激しながら読んでいました。

 次に、バイオテクノロジーへの注目という驚き。
 AIで未来が変わるとか、人間の仕事が奪われるとか、そういう議論は誰しも一度は見たことがあるでしょう。AIは、人類の未来を語るにあたってまず引合いにだされる存在です。
 一方で、バイオテクノロジーをこの議論に本格的に持ち出すのは、私は本書で初めて見ました(私が単に無知というのも多分にあります)。正直本書でいきなりバイオテクノロジーが出てきたときはぎょっとしたんですが、既に実現している義手や義足、そして抗うつ剤が、病気や障害の克服ではなく、健康な人間の強化に使われ始めたら?と考えると、バイオテクノロジーが大きく人間を変えうる可能性を持っているという発想は、にわかにリアルなものになっていきます。
 そしてそれ以上に、人間の行動や意思決定の仕組みを、神経や肉体のつながりと電流から構成されるアルゴリズムに分解する、というバイオテクノロジーの科学的知見が、「個人とはそれ以上分割できない神聖な存在である」という現代の世界を支える哲学をダイレクトに揺るがすものである、という発見には身震いしました。確かにバイオテクノロジーは、「個人の自由選択」と思っていたものが、モノが地面に落ちるような、ただの物理的・科学的メカニズムの所産である可能性を明示しました。まさにパンドラの箱です。科学は、その領分でないはずの「哲学」すら、今や揺るがそうとしつつあるのです。それも個人主義、自由主義という現代哲学の根幹を。私たちはもはや、今まで当たり前とおもっていた価値にあぐらをかいているわけにはいかない。私たちが当たり前と思っていた価値の再検討し、それを引き続き信奉するか、科学に促されるまま捨て去るかの選択を自律的におこなっていかなければならない時代に来ているのです。

 最後に、本書の提示する未来への少しばかりの反論。
 確かに、本書が未来の「宗教」として提示する「テクノ人間主義」、「データ教」は非常にリアルな予想で、説得力があります。バイオテクノロジーとAIは、人間という存在が分析・操作可能なアルゴリズムでしかないことを暴き、また、社会における人間の必要性を縮減させ、人間至上主義の居場所をなくしていきます。確かに、これまで信奉されてきた「人間とは神聖な存在である」という神話は消え去り、その神話を基礎に形成されてきた社会経済システムは、変化の圧力を受けることでしょう。フェイクニュースに踊らされロクな判断ができない国民に投票を任せるより、AIに政策決定を任せてしまうほうが合理的ではないか。くよくよ思い悩んでしまう性格の人間は、人間の情動に働きかける化学物質を摂取して、明るい性格になったほうが幸福ではないか。その発想は、確かに「正しい」です。また、かつてAIが将棋や囲碁で人間に勝つことに困惑していた人々は、2020年現在、その事実を受け入れています。人間は万能ではない。そのことは、既に静かに人々の意識に浸透してきています。
 しかし、その傾向、意識を推し進めた「テクノ人間主義」、「データ教」は、正直いわゆるディストピアです。なぜディストピアなのか?それは、「人類」が駆逐されるからではない。「私」が駆逐されるからです。人類が駆逐されるのは仕方ない。AIはどうしようもなく有能だし、人間はどうしようもなくただのアルゴリズムの集合体だ。でも、「私」の人格を、意思を、存在を奪われるのは耐えられない。自分の性格をいじることができるという事実は受け入れられても、実際にいじられることは受け入れられない。「私」の選択がただのアルゴリズムの結果であることは受け入れられても、「私」の選択は「私」にとって尊いものであることに変わりはない。私たちは、「人類の神聖さ」は捨てることができるし、先ほどの将棋の例のように実際に捨てつつありますが、「私の神聖さ」は、捨てることができないのです。
 であるならば、「人間至上主義」の後釜は、何も「テクノ人間主義」、「データ教」だけではない。「『私』至上主義」も、候補に躍り出るのではないでしょうか。私はなにも、データの蓄積が最高善であるからインスタに写真をアップしているのではなく、「私」を見てほしいからアップしているわけです。「私」はAIよりも非合理で誤った選択をするのは確かだが、それでもいいんです。それが「私」の選択なのだから。そんな、AIとバイオテクノロジーの前に敗れ去った「人類総体」という権威を捨て、「私」という権威を守る発想も、時代のイデオロギーの候補になるのではないでしょうか?

 いずれにしろ、人間は21世紀の科学が、我々が当たり前と思っていた価値を大きく揺るがすものであることを認識し、思考停止に陥らず、その価値を守るか、科学に流されるか、はたまた価値を自律的に次のステージへと昇華させていくか、選択をしなければならないのです。その選択が、「ただのアルゴリズムの産物」と退けられるようになる前に。

(終わり)

EX.  本書とFGO第2部第5章との関係についての妄想

 FGOっていうソシャゲがありますよね。今、FGOが5周年記念企画として、各地方の新聞に順番に2面広告を出して言っています。その地方の景勝をFGOのキャラが楽しんでいるさまが描かれていて、ファンとしては非常にすばらしい企画になっています。

 そのFGOですが、今のそのメインストーリーがかなり攻めた内容になってます。主人公の世界とは別の世界線がいきなる7つ現れるところから物語は始まります。そして、「お前の歴史は間違っている!」といって、主人公の世界を侵食してくるんです。それに対して主人公は自分の世界を守るために、その別の世界線を「侵略」して、文字通り滅亡させていきます。

 で、その別の世界線って、様々なんですけど、多くは「管理」された世界なんです。超人的な存在がいて、その存在が、その世界の人間の生き方が「正しく」なるように管理している。最新エピソードで滅ぼす世界線はIFのギリシャなんですけど、オリュンポスの神々が超々高性能AIであるっていう設定で、人間を強化して長寿命にさせて、その生き方が「幸福」であるように管理してるんです。いかがでしょう?まさに『ホモ・デウス』の未来観ではないですか?

 そんな「正しい」世界を滅亡させる理由を、作中で主人公は説明できません。その世界より、主人公の世界のほうが「優れている」ことを、論理的に主張できないんです。その優位性を明確には説明できないまま、主人公はそのギリシャを滅ぼします。そう、『ホモ・デウス』の問いかけに、このFGOのエピソードは回答できないんです。

 とはいえ、このFGOのエピソードは、ソシャゲという軽いエンターテインメントで、『ホモ・デウス』が開いたパンドラの箱の中身へプレイヤーを誘ったわけで、私はそのことにものすごく価値を見出したいと思っています。

 で、話が戻ります。現在FGOが地方の新聞に出している広告には、いつも同じ言葉が掲載されています。その言葉を紹介して、この感想の締めくくりにしたいです。FGOがいかに『ホモ・デウス』の問いかけに挑もうとしているのか、何か感じるものがあるのではないでしょうか。 

 『あなたが生きる、この世界に。』
 
 いつか終わるから、この一瞬は美しい。
 変えられないから、その選択は尊い。

 歩んできた旅路を、どうか忘れないで。
 物語は、あなたのそばにあり続けるから。

(おわり)

P.S.

上記FGOのエピソードに興味が出た方は、以下の記事も読んでくださるとめちゃくちゃうれしいです...! 本エピソードの中身をがっつり読み解くお話です。

FGO第5章『星間都市山脈 オリュンポス』ストーリー総括 ~『オリュンポス』は終わっていない~


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