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FGO第5章『星間都市山脈 オリュンポス』ストーリー総括 ~『オリュンポス』は終わっていない~

※ この記事はFGO第2部第5章後半『星間都市山脈 オリュンポス』のネタバレを含みます!

 FGO『星間都市山脈 オリュンポス』をクリアしました!とても素晴らしいストーリーでした。FGO第2部は、「異聞帯」と呼ばれる別の世界を運営する「クリプター」との戦いを描く物語です。第5章は、そのクリプターを率いるリーダーであるキリシュタリアとの対峙ということで、第2部全体から見ても、非常に重要度の高いストーリーになりました。それどころか、メインライターの奈須きのこ先生をして「クリプター編の終わり」と言わしめる(※)ほど、第2部で語られる物語がある意味終結したともいっていい、決定的な結末を迎えるところとなりました。

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では、その「クリプター編」とはいったい何だったのでしょうか?
クリプター編は、いったい何を描く物語だったのでしょうか?
そもそも、クリプター編は、本当の意味で「終わり」を迎えたのでしょうか?

 私がFGOの第2部をプレイしていてずっとなんとなく考えていたことが、オリュンポスをプレイしたことでかなり固まりました。ちょうどいい総括のタイミングと考え、以下に吐き出します。心優しい方は、おつきあいいただけますと幸いです。

1. FGO第2部が描く「人理剪定」の戦いの本質

 FGO第2部の戦いは、すなわち「人理剪定」です。

 FGO第1部では、2015年、人類悪ゲーティアの手により、人類の歴史が焼却されました。第1部はその人理を取り戻すため、歴史上に現れた7つの特異点を修復する物語であり、主人公はこの戦いをやり遂げたことで、まさに世界の英雄となったのです。

 しかし、2017年末、再び危機が訪れます。主人公の所属する組織、カルデアが何者かに襲撃され、同時に世界が文字通り「白紙化」します。カルデア以外の全ての人類が消え、カルデア以外の大地が、全て白い更地になったのです。この黒幕が、「クリプター」と呼ばれる7人のマスターです。7人のクリプターは「異星の神」の助けを得て、人類の歴史を白紙化し、ありえたかもしれないifの世界線7つを、地球上の7つの地域に実体化させました。今の人類の歴史は失敗であると考え、ありえたかもしれないifの世界線(異聞帯)7つを復活させる。そして、7人が一つずつ異聞帯を運営し、互いに戦わせる。そして、最後の生き残った世界を、新たな人類の「正しい」歴史とする。それが、クリプターたちの目的です。
 ならば、主人公に残された道は一つ。その7つの世界全てを滅ぼす(剪定する)ことで、もとの人類の世界を復活させることです。これが、FGO第2部の戦いです。

 しかし、主人公は一つ目の異聞帯に乗り込むやいなや、ある事実に直面します。それは、それぞれの世界には平和に、何の罪もなく暮らしている人々がいて、異聞帯を滅ぼすということは、彼らの生活を、命を、存在を、世界を、全て奪い去ることを意味する、という事実です。主人公の「世界を取り戻す」ための戦いは、異聞帯の住人からしてみれば、ただの「侵略」なのです。
 主人公は異聞帯に乗り込むたび、この葛藤と直面することになります。そして、主人公はせめて、その葛藤から逃げないことを選択します。積極的にとは言わないまでも、それぞれの異聞帯の住人と交流し、助け、ともに暮らします。その上で、異聞帯を伐採するのです。世界を取り戻すために、異聞帯は伐採しなければならない。ならばせめてその世界には誠実でありたい。そんな主人公の姿勢には善意であふれています。
 また、ここは少しメタ的な話になりますが、異聞帯はどれも、どこか「行き止まり」の様相を呈した世界になっています。具体的には、人類が化物に虐げられていたり、人口を少数に管理されていたり、超人的な力を持つ王によって過度に庇護され、多様性を失っていたりするのです。そんな「何かが欠けた世界」、はっきり言ってしまうと「主人公の世界よりどこかが劣っている世界」が異聞帯になっていることで、主人公がその異聞帯を滅ぼすことに、ある種の「言い訳」が備わるのです。このおかげで、主人公の戦いに潜む「理不尽な侵略」という側面が、FGOというゲームをプレイする私たちに対して少し緩和されている側面があります。
 しかしそのことは、主人公の戦いが異聞帯の人々にとってただの「侵略」であるという事実を、覆すものではありません。ここが重要なのですが、主人公が戦う理由は、結局のところ「自分の世界を取り戻すため」だけなんです。これは決して、他の世界を滅ぼしてもいい理由にはなりえません。異聞帯の住人からしたら、異聞帯こそ、保護されるべき「自分の世界」なのですから。また、「自分のために」戦うという行為は、すべての人がそれをしてしまうと必ず争いが生じ、平和が遠のいてしまいます。つまり「自分のために」戦うという行為は、倫理的、道徳的に推奨されるべきではない、いわば禁じ手なのです。そんな、「自分のために」という望ましくない理由のために主人公は戦い、異聞帯を次々と滅ぼしているのです。

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2. キリシュタリアの「世界」

 そうして4つの異聞帯を滅ぼし辿り着いたのが、キリシュタリアの運営する異聞帯、その名も『オリュンポス』でした。
 そのオリュンポスを攻略する中、キリシュタリアの真の目的がオリュンポスの正史化ではないことが、最終盤で明らかになります。キリシュタリアの真の目的、それは、人類の「神化」、いわば人類のアップデートでした。

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 人類の知性構造は、根本的に他社から何かを奪うことで成り立っている。先で述べた言い方を繰り返すならば、人類はいつも「自分のために」行動してしまい、それゆえ平和を実現することができない。であるならば、人類という種そのものを作り替えるしかない。異聞帯の権能を使って、優れた身体、そして高次元の知覚を持つ、神に類する新たな種に人類をアップデートさせる。そうなれば、この世界は争いのない善性にあふれたものになる。それが、キリシュタリアの願いであり、オリュンポスは、その願いをかなえる場だったのです。ベストセラー書籍の命名を借りるならば、「ホモ=デウス」の実現を図っていたのです。

 なぜキリシュタリアはこのような考えに至ったのでしょうか?その由来は、第5部で語られる、彼が一度命を落としかけた体験に求めることができます。彼は少年のころ、家柄、才能に恵まれ、頂点に立てるという確信をもって魔術に邁進していました。しかし、そんな中で父に命を狙われ、瀕死の状態となります。そうして倒れこむキリシュタリアを救ったのは、彼が通学路でいつも見かけ、見下していた乞食の子供でした。彼は乞食の子供に救われることに無力感、嫌悪感を抱きながら、子供から渡される固いパンを食べ、その子供の住処で命をつないでいましたが、ある日、子供はキリシュタリアに初めて焼きたてのパンを渡した直後に、衰弱死します。キリシュタリアはこの時初めて、子供が自分の食事をすべてキリシュタリアに渡していたこと、暴力を受けながら命からがら焼きたてのパンを盗んできたことを悟るのです。彼の人生は、その瞬間大きく変わりました。自分を優れたものとみなし、頂点を目指す人生は送らない。自分が美しいと感じたものに、子供が見せてくれた人類の善性、すなわち「人類の価値」の証明に、人生をかけようと決意するのです。

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 これはありきたりの美談のようで、見過ごしてはならない重要な決意と言えます。なぜなら、この決意は、キリシュタリアの「世界」が広がったことを意味するからです。
 キリシュタリアはこれまで、自分の才能を自負し、いかに自分の能力を発揮して、優れたもの、美しいものを生み出すかに意識を向けていました。しかし、この体験で彼の目的は「自分の能力」の証明から、「人類の価値」の証明に代わります
 つまり、彼の「世界」は、自分の身体を輪郭とした世界から、文字通りこの地球上の世界そのものに、世界中の人々を包摂する世界に、大きく広がったのです。

 「世界」を広げること。これは、本当に難しいことです。「世界」を広げるとは、これまで自分が自分の身の回りの人、ものに向けているのと同じレベルの意識を、より遠くの人、ものに向けるということです
 例えば、あなたは普段、アフリカで食べ物に飢えている子供たちに、常に心を痛めているでしょうか?友人が大けがをしたら、あなたはそれを自分のことであるかのように心配し、心を痛めることでしょう。それは、友人があなたの「世界」の内側にいるからです。一方、アフリカの子供たちは、あまりにも遠い存在で、少なくとも普段は、あなたの「世界」の外にいます。だから、普段あなたはアフリカの子供たちの飢餓に対し、強い意識を向けることはありません。
 この議論は、今のコロナ禍でも言えることでしょう。日本では日に日にコロナ感染者が増え、今でも、呼吸もできないほど病に苦しんでいる人々が、この国に何十人、何百人といます。そして、そんな患者を救うべく、睡眠時間を削って働く医師の方々が多くいます。私たちはそんな方々に心を痛めますが、それで普段の生活を大きく変えるかというと、そうではありません。外出は自粛しつつも、普段通りオフィスまたは自宅で働き、Zoomで友達と談笑し、娯楽に楽しんでいる人が多数でしょう。これも、今苦しんでいる患者、医師の方々が、私たちの多くにとっては、自分の「世界」の外側にいるからです。
 私はなにも、そうした「世界」の外側の人への無関心を非難したいわけではありません。むしろ、人間とはそういうものであり、そうでもしないと、生きていけないのです。この世で苦しむすべての人の苦しみに思いをはせ、共感し、同じように苦しんでいては、私たちは健全な生活を送ることはできません。自分の人生を全うすることもできません。人間が他者に向けられる意識の総量には、限りがあります。人間は、まともに生きるには、どこか自分に近いところに、自分の「世界」と外界とに境界線を引かざるを得ないのです

 しかし、キリシュタリアは「世界」を広げたのです。これまで自分の優性を証明したいと考えていたのと同じように、人類全体の善性を証明したい、そう考えるに至ったのです。
 だからこそ、争いの絶えない醜い人類の歴史を、自分のことのように憂い、自分の問題としてその解決を目指したのです。そして、「異星の神」に見いだされたことで、その解決の機会に恵まれてしまったのです。そうしてキリシュタリアが着手したのが、異聞帯の力を借りた人類のアップデートででした。驚くべきことに彼は、このアップデートは、その実行者である自分だけは対象外になってしまうと述べています。このアップデートが達成されたら、オリュンポスの民は等しく神のような種へと進化しますが、自分だけは、いわば旧時代の劣等種として一人で生きることを覚悟していたのです。このことは、キリシュタリアの「世界」が、もはや自分の身体という矮小な世界にとらわれていないこと、彼の「世界」の成功とは、すなわちこの地球上の世界全体の成功と同義であることを、鮮烈に表しているでしょう。

3. FGOという物語の「自分」への収束

 片や人類全てを救う戦い。片や自分の世界を取り戻す戦い。どちらが一般的に善といえるかを考えると、自己中心主義を排し、利他をこれ善なりと教えられてきた私たちの価値観からしたら、前者に軍配が上がってしまうのは明らかでしょう。

 そんな弱みを抱えながら、主人公は自らの異聞帯との戦いの意義を、ますます「自分」という世界に収束させていきます。キリシュタリアとの戦いに臨む主人公の心を支えたのは、カイニスが、キリシュタリアが自分を対等な敵だと認めてくれていること、アデーレとマカリオスが、「主人公たちは他のオリュンポス人にとっては大悪人だろうが、自分たちにとってはそうじゃない」と言ってくれたことなんです。「自分」を「倒すべき強大な相手」と認めてくれているから、マスターとしての誇りをかけて正々堂々戦う。「自分」の仲間が認めてくれるから、世界の全てが自分の敵でも、立っていられる。主人公の戦いの出発点は、いつも「自分」なのです。

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 では、FGOという物語は、いつも「自分」を起点にする主人公を糾弾したいのでしょうか。いいえ、その逆です。主人公だけではなく、FGO第2部という物語自体が、そうした「自分」本位の姿勢を後押ししているように思われます。
 というのも、上記のとおり圧倒的な無私の姿勢を見せたキリシュタリアですら、心の奥底では実は、「自分」という呪縛から逃れられていないからです。
 キリシュタリアは他の6人のクリプターを自分とともに生き返らせるべく、それぞれのクリプターと焼却された人理を取り戻す戦い、すなわちFGO第1部の戦いをシミュレーション上で行い、クリプター6人に人理復活の業績を疑似的に付与、その業績をもって生き返りの対価としたことが、作中で明らかになります。そして、キリシュタリアが他のクリプターとFGO第1部の旅をしている姿が彼の回想として明らかになりますが、その回想の中のキリシュタリアは、私たちがこれまで想像もしていなかったほど、明るく、活き活きとしているのです。そしてその思い出が、キリシュタリアと主人公の最終決戦時、キリシュタリアの力となり、主人公を苦しめたです。なお、エルサレム、メソポタミアでの旅は、彼の力とはなっていません。冒頭で挙げた奈須きのこ先生のブログにあるとおり、そこでの旅は、いつも一人だったから(仲間のクリプターはそこまでたどり着けなかったのでしょう)です。逆に言えば、キリシュタリアにとってのシミュレーション上の人理を取り戻す戦いは、その偉業性ゆえに重要なのではない。「自分」のそばにいてくれる仲間との旅だったからこそ、キリシュタリアにとって何より重要で、意義のあるものだったのです。ここまできた ら、彼が「異星の神」に、自分だけでなく他のクリプター6人を生き返らせた理由も、もうおわかりでしょう。

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 そして、キリシュタリアの最期の言葉。死の間際に彼が漏らしたのは、人類のアップデートをやり遂げることができなかった後悔でも、人類の価値への諦観でも、人理の行く末への懸念でもありません。

 「かなうのなら。
  Aチームのみんなと、世界を救いたかったなあ。」

 そんな、彼個人の思いにあふれた、驚くほど感傷的な吐露でした。
 自らの「世界」を広げ、世界全体に対して意識を向け、世界の全てを救済しようとしたキリシュタリアですら、その一番中身の核の部分にあったのは、仲間とともにありたい、そんな「自分」の生き方の対する願いだったのです。

4. 『オリュンポス』は終わっていない

 私はそんなキリシュタリアの吐露に、これまでのFGOのストーリーの中でも一番言っていいほど、心動かされました。彼ほど「世界」を広げ、彼ほど高い視座を持ち、彼ほど無私を貫いた人間ですら、最後は「自分」という殻を脱することができない。私は、キリシュタリアが最後の最後まで、その思いを心の奥底に閉じ込め、自らの使命に全てを捧げていた事実に率直に敬意を表するとともに、そんな彼すら心の奥底に大事に閉じ込めていた「自分」という存在に、概念に、逆説的にこれまでにないほどの尊さを感じました。

 しかしその尊さは、キリシュタリア自身が提唱した「人類のアップデート」に対して、依然論理的な反論を提示できてはいません。FGOの描く主人公の戦いは、仲間という狭いコミュニティーの中での信頼、異聞帯の住民への誠意、「自分」という存在に対して抱いてしまう逃れがたい激情、そんな輝かしいドラマに溢れています。しかしその全ては、本記事前半で述べた「自分のために戦う」ということの弱みを、それは必ず争いを招いてしまい、平和を実現することはできないという欠点を、克服するに足りるものではありません。
 そして、FGOというこの物語自体、キリシュタリアやゼウスが指摘する「自分のために戦う」ということの弱みに、回答を提示出来ていません。ゼウスが「なぜ異聞帯を殺す?」と問うた時も、主人公は「自分の世界を取り戻すため」としか答えられない。キリシュタリアが「人類のアップデート」の是非を主人公に問うた時も、主人公は、それに反対する理由を明確に説明できない。ゼウスやキリシュタリアの問いにうまく返せる選択肢を、ゲームをプレイする私たちに提示してくれないのです。
そう、FGOという物語自体が、主人公の戦いに大義名分を与えられないという、ある種の異常事態がここに生まれているのです

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 つまり、FGOという物語は、主人公の戦いの是非、キリシュタリアの目指した「人類のアップデート」の是非に対する回答を、プレイヤーである私たちに委ねています。FGOは、その『オリュンポス』の物語を通して、いや、『クリプター編』といわれるここまでの第2部の戦い全体を通して、主人公の戦いが本当に正義なのか、その疑問を丁寧に、重ねて私たちに提示してきました。そして、FGOという物語は、ついにその答えを自ら提示しませんでした。その答えは、私たちが引き継いで考えないといけないのです。
『オリュンポス』は、『クリプター編』は、まだ終わってなどいないのです。

 そして、その答えを見出すのに私たちに残された時間は、あまりないかもしれません。というのも、キリシュタリアの目指した「人類のアップデート」は、魔術ではなく科学の発達によって、着実に近づいています。病気の克服、ナノマシンを含むバイオテクノロジーの進化、人体のサイボーグ化技術の発達(既に実現している義足などはこの初歩段階といえます)によって、人類の長寿、強靭化、そして疑似的な不死は徐々に現実のものになっています。また、抗うつ剤や興奮剤の活用の拡大などにより、人類を生化学的に幸福感に浸す技術も発達を続けています。また、人間は様々な判断をAIに委ねるようになると、AIの優れた力によって、人類は争いを克服できてしまうかもしれません。人類が、今の人類とは全く別の、より高次元の存在になる未来は、思ったよりも近くに迫っているのです。
 そんな未来はディストピアであるとして、FGOの主人公と同じようにNOを突きつけたいのであれば、私たちは、そんな未来に反論しなければなりません。「自分」という殻を脱却できない今の人類のままでも、よりよい未来を手にすることができることを、そのディストピアが到来する前に証明しなければならないのです。

 その私たちの戦いに対して、FGOという物語は、いくつかヒントをくれています。
 一つ目は、世代を重ねることによる強さです。人は死にます。そして、その技術を、価値観を、次の世代の人間が受け継ぎ、自分たちなりに修正、改善して、また次の世界へつないでいきます。こうして、多くの異なる人々が順番に財産を受け継ぎ、それを進化させていくからこそ、人類は発展できるのです。「受け継ぐことに意味がある」、このことを初めて強烈に示したのが、FGO第1部第7章『絶対魔獣戦線 バビロニア』で、残りわずか数百名となったウルク市民にギルガメッシュ王が放った演説です。ウルクは滅ぶかもしれない。しかし、ウルクを受け継ぐものがいたら、人理は続く。そして、人理は進化していく。だから、ウルクは戦い続けるのです。また、FGO第2部第5章『アトランティス』、『オリュンポス』でも、先遣隊たる英霊たちが残した武器、技術、知識を駆使することで、主人公は勝ち進んでいきました。この展開も、「受け継ぐ」ことの強さを表していると思います。この「受け継ぐ」ことの強さは、人間が長寿、非死を達成してしまったら、失われてしまうかもしれません。実際、オリュンポス市民は進化もやめ、同じ毎日を繰り返すようになっていました。アデーレとマカリオスはこれに疑問を呈し、主人公に力を貸したわけです。
 二つ目は、『オリュンポス』で武蔵ちゃんが子供に語った、善悪相対論です。

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 カルデアは悪魔に違いない、という子供たちに対して、武蔵ちゃんは、もしかしたら間違っているのは相手ではなくて自分かもしれない、相手にも何か事情があるかもしれない、その可能性を顧みた上で、善悪を判断するように説きます。そう、この世の中、善か悪かはっきりするものは、それほど多くありません。一見自分にとっては悪に見えるものでも、相手からしたら、それは善かもしれない。その可能性に気づいたとき、人は、自分も相手もどこか一面的な考え方を持っていたことを認識します。そして、相手と議論して、両者にとって納得できる結論を見つけることができます。その結論は、もともと両者が別々に持っていた一面的な考え方よりは、よりよい結論であると言えるでしょう。こうして、人は、「自分」と「自分」を戦わせることで、より高次元の段階に一歩一歩、しかし無限に進歩することができるのです。しかし、キリシュタリアのように、人類をまとめて同じようにアップデートさせるやり方は、そうした人間同士の「差異」をなくし、ゆえに人類の進歩を止めてしまうかもしれません。

 私たちは、「自分」という殻から逃れることができません。そしてみんなが「自分のために」行動するから、争いを脱却することができません。
なら、私たちはどうすればいいのか?それは、これからの「物語」が、そして私たち自身が、継続して考えていかなければならないことなのです。

 長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただけた方に多大なる感謝を。

(終わり)

P.S.

6章の感想も書きました。こちらもよければぜひ。


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