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【番外編③】『ハイパーインフレーション』~ナショナリズム、帝国主義、経済戦争~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『ハイパーインフレーション』1巻表紙より


1.市民革命、国家統一運動、ナショナリズム

 本書3回目の番外編です。とりあげたい時代・地域に当てはまる歴史ものマンガが見当たらない場合、似たような舞台設定のフィクション作品を紹介する「番外編」によってここまで凌いできたわけですが、今回とりあげたいのは、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界のほぼ全域を飲み込んでいった、主義・思想のお話です。
 
 近世後半の幕開けとなった市民革命。これはすなわち、これまで君主にあった国家の主権を市民の手に下ろすということでした。
 これは一面では王の暴政からの解放を意味するものですが、『河畔の街のセリーヌ』のページでお話しましたとおり、一方では国民が「独り立ち」を迫られるということでもあります。これまで国家の運営は良くも悪くも王やその身辺の貴族に委ねられており、市民が自らの責任として、国家全体の福祉や外交に頭をひねる必要はありませんでした。しかし一度主権が国民に渡ると、国家の運営の責任もまた国民に渡ります。政治面では投票によって議員を選び、また軍事面では国民自ら兵士となり外敵と戦う。そのようにして、国民一人一人の意思と努力によって国家が支えられることになったわけです。
 これは国民にとって一つのストレスとなる一方で、ある新しい意識を醸成することになります。それは、「俺たちこそがこの国家を運営しているのだ」、あるいは「俺たちがいてこそ、この国家なのだ」という自負です。これまでは仮に自国が他国に侵攻されようと、それは「国家」間の争いというよりは、地方領主同士、その延長線上としての「国王」同士の戦いだった。しかし、国家主権が市民の手に渡ったら、「国家」とは「市民」そのものなのです。だから国家への帰属意識が強まっていくし、戦争が起こったら市民は「国家」を護るために自ら武器をとって戦う。現代でこそ、私たちが例えばオリンピックを見て日本の選手を応援することはごく自然なふるまいだと思いますが、そういうふるまいのベースにある「国家」への意識というものが、市民革命を経たこの時代に生まれてくるのです。こうした帰属意識を、一般に「ナショナリズム」と言います。
 
 また、この「俺たちの国のことは俺たちで決める」という市民革命の精神は徐々にヨーロッパ中に伝染していくことになるのですが、ここで問題になるのが、地域によってはそもそも「俺たちの国」と言えるような国家が存在していない場合があるということです。実際、この頃のヨーロッパには各地方が分裂して国家の体が成立していない地域があり、こうした地域では、国家の主権を獲得する市民革命を行う前に、まずは分裂した地方をつないで自分たちの「国家」を形成するという国家統一の運動が必要になります
 そして、ここで一役買うのがやはりナショナリズムです。国家の主権を獲得する市民革命を行うなら、そもそもその「国家」を措定しないといけないよね、という現実的な問題だけではなく、「俺たちの国が欲しい」というナショナリズムという熱にも押されて、19世紀ヨーロッパでは急速に国家の統一運動が進むことになりました。市民革命、そのために必要な国家統一運動、そしてその両者を支える精神としてのナショナリズムが、時に三位一体となって大変動をもたらしたということです。

 この流れが一番わかりやすいのがイタリアです。『狼の口 ヴォルフスムント』のページで見たとおり、中世以来教皇領と複数の都市国家に分裂した状態が続いていたイタリアですが、フランス革命の自由主義の影響を受けながら19世紀初頭以降統一運動が開始。一部のイタリア内小国がこれに味方し、この国がイタリア各地を飲み込んでいく形で、19世紀半ばにようやく「イタリア」という国が誕生するのです。
 一方で、結果的にはこれと違う経路で統一が進んだのがドイツです。この地域には「神聖ローマ帝国」という国が形だけ存在し、オーストリア地方のハプスブルク家がその帝位を保有する状況が続いていましたが、ナポレオンの侵略によってこの帝国がついに名実ともに消滅。ナポレオンの侵略をきっかけに自地域の遅れを自覚した旧帝国領各地方は、プロイセンという地方を中心にして統一工作を開始します。プロイセンは巧みな武力と外交の使い分けで隣接地域との同盟を拡大しつつ、かつての盟主・ハプスブルク家率いるオーストリアから統一運動の主導権を奪い、1871年にオーストリア抜きで「ドイツ帝国」を成立させます。こちらは市民革命のような自由主義運動と結びついた「下から」の統一運動ではなく、国家自らが進めた「上から」の統一運動と言えるでしょう。
 
 こうして、市民革命やナショナリズムをきっかけとして国家の形成・統一が進み、アメリカ、イタリア、ドイツといった国が新たに成立。19世紀末にしてついに、欧米では現代と同じ役者が揃うのです。

2.帝国主義の勃興とナショナリズムの反転

 一方で、欧米ではこの時もう一つ大きな変化が起こっています。それは第二次産業革命とも言うべき、重化学工業の発展です。
 化学繊維、プラスチック、電話、電灯、自動車といった発明が相次いでなされ、この時期から市民の生活は一気に現代のそれに近づいていくのですが、これらの生産・使用に必要なのは「石油」や「電気」。こうした製品を製造・販売し利益を最大化させるため、各国はこの頃より、石油等の資源を発掘でき、さらに製造した製品を購入してくれるような海外領土をますます強く求めるようになっていきます

 しかしながら、海外には海外の産業や社会があるわけで、いきなりこの原料を生産しろ、この製品を買えと言われても、それに対応できるとは限りませんし、そもそもそれに従う筋合いもありません。だから欧米各国は、自らの腕力にものを言わせて、主にアジア・アフリカ地域を無理やり従属させていくことになります。具体的には武力で支配下に置きこれを植民地化するだとか、現地の国家体制は残しつつも、自国に極めて有利な条件の不平等条約をその国家と無理矢理締結し、経済的従属を迫る等です。この国力増強レースとそのための他地域の軍事的・経済的抑圧こそが、18世紀末~19世紀初頭の全世界を規定していった「帝国主義」です。
 
 この帝国主義はアジア・アフリカの社会を崩壊させただけでなく、欧米社会自身にも暗い影を落とします。
 第二次産業革命は上記のとおり、いわゆる「現代的な生活」が現れるきっかけになった出来事です。大都市では百貨店に多様な商品がならび、街に並ぶ街頭が夜を照らす。さらには細菌学等の発達により衛生状況も格段に改善し、華やかで文化的な生活が、社会の上層階級だけではなく中間層や労働者にも広まっていきます。しかし一方でアジア・アフリカに目を転じてみると、欧米において豊かな生活を実現するための犠牲として、昔ながらの生活のまま資源開発等を強要されている。こうしたアンバランスは本来是正されるべきなのですが、この時代の欧米は、ナショナリズムを背景にしてこれを「俺たちの国を他の国よりも豊かにするために必要な犠牲」と是認します。それどころか、自国を含む欧米を「文明的」、アジア・アフリカを「野蛮」とする、ともすると今も残っている偏狭な差別意識を強めていくのです。

 かつては市民に権利を与えたはずのナショナリズム。しかしその精神は一旦「俺たちの国」の市民に権利を与えると、今度はその権利の維持拡大のため、「俺たちの国」以外の人々の権利を略奪する意識として反転していったのです。

3.『ハイパーインフレーション』が描く帝国主義下のトンデモ経済バトル

 こうした19世紀末ごろの時代性をモデルにして、唯一無二の経済バトルマンガに練り上げた作品が、住吉九先生作の『ハイパーインフレーション』です。
 
 主人公は、架空の「ヴィクトニア帝国」に植民地化された地域に住む「ガブール人」の少年、ルーク。帝国に抑圧されたガブール人を救うべく、贋金とヴィクトニア人が持つ本物の通貨を交換する「商売」で金を貯めていた彼ですが、運悪く帝国による奴隷狩りに遭遇し、姉ともども奴隷の身分に。絶望するルークでしたが、その時ガブール人が代々信仰している神が彼の前に現れ、彼に特殊な能力を与えます。その能力とは、精巧な偽物のヴィクトニア紙幣を体から大量に生産できる能力。彼はこの能力を用いて大富豪となり、ヴィクトニア帝国を丸ごと乗っ取ろうと画策するのです。
 
 ・・・というと法外な額の札束で敵を殴るだけの作品に見えてしまうのですが、本作のストーリーを非常に複雑しているのは、ルークが創る偽札は全て、紙幣に書かれている連番が同じであるということ。本来連番と紙幣は1対1対応ですので、この偽札をまとめて使うなどして連番のダブりが発見されてしまうと、一発で偽札とバレてしまうわけです。しかし、この偽札で大きいことをしようとするならば、当然多額の偽札を使わざるを得ない。そういう二律背反がルークの戦いを難しくするのです。 
 さらには、仮にルークの偽札が偽札とバレずとも、ルークが多額の偽札を使った結果紙幣が大量に出回ってしまうと、みんながお金持ちになりますので、その分物の価格も上がっていきます。つまり、本作タイトルの「ハイパーインフレーション」が起きてしまい、ルークの紙幣も紙屑同然になってしまうのです。
 こうした難題を克服しつつ、自らの生む偽札をもっていかにヴィクトニアという国家を屈服させるか。本格的な経済バトルが、この作品独特のコメディタッチとごった煮になりながら描かれていきます。

 また、本作品の上記の設定が、帝国主義の時代をなぞっているのは明らかでしょう。海外に広大な植民地を有する島国として描かれるヴィクトニアはそのまま大英帝国であり、ガブール人の住む地域はインドかアフリカといったところでしょうか。あるいは、本作で描かれるヴィクトニア人のガブール人に対する剥き出しの差別意識も、この時代の精神を反映したものです。そんな時代の植民化地域では、仮に国家が存続していても帝国に政治的に懐柔されているし、軍事力もとても及びません。しかし、政治・軍事をもって反攻はできずとも、経済で反攻することはできる。いや、帝国は自らの経済発展のためにこちらを植民地化しているのだから、ある意味帝国は経済面ではこちらに依存しているのであり、経済は帝国のアキレス腱にすらなりうる。そういうこの時代になって初めて現れた現象を、この時代のモチーフを使いつつエンタメに落とし込んだ快作です。


次回:【近代・後④】『守娘』~中国最後の帝国の繁栄と、そこにあった社会不安~ 

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