親密さ
実家じまいの本と、20分で4品ごはんという本とを交互に読んでいる。夢もロマンもないけれど、いま必要な情報を求めているのだから、よしとする。
[20分]の方は、3口のコンロと魚焼きグリルを駆使して、4品作りなさいよ、というもので、季節の食材を使った見た目も華やいだ料理の写真が並ぶ。一応20分の工程表も添えられているが、余程流れるが如く動かなければ到底20分でなど作れない。レシピを見ながら作っている時点で、流れるようにとはいかなくなるから、4品のうち2品は脳内レシピで作れるものに置き換えてみる。残り2品はとりかかる前に材料と工程を前頭葉に刷り込む。それでも20分どころか40分はかかる。その合間に父のお世話がはさまって計1時間。本のタイトルとは程遠い。「炒め物を二品作らない」といったコツとも呼べないコツは載っているが、どうも今のわたしにぴったりと合うものではないようだ。
[実家じまい]の方は、やがて必要になるであろう情報に満ちている。やるべきことの多さ。即ち現時点でできていないことの多さ。全てはわたしの肩にのしかかる。その心理的重さたるや想像以上のもので、頁をめくる手の先まで動きづらくなる。
通勤の車内で本を読みながら、ふと顔を上げる。日本の空き家問題はかなりの深刻さだと読めば、今この車内にいるこの人やこの人は、その親たちの家は、どうなっているのだろうなどと思う。
いま多くの時間を過ごしている親の家は、私にしてみれば実家ではなく、祖父母の家だ。だから親密さも愛着も一歩退いたものとなり、完全に踏み込めないところがある。踏み込むも何も、別に自宅がある以上、気持ち的には他人の家だ。自分の大切なものを置く気にはならないし、既にある物たちとの交わりも深くはなりづらい。なるべくなら必要以上の時間をそこで過ごしたくはない。そうすると愛着は強まらない。結果としてその家は片付かず、よって親密さは濃くならないという悪循環が続く。
わかってはいる。
これが自分の住まいだと認めて、家とも物とも向かい合い、もっと多くの時間を費やせばよい。
話を本に戻す。
実務的な本の内容に反して、否、実務を知ろうとこの本を手にとったはずであるのに、わたしの心にいちばん響いたのは
「もう両親がこの世にいないのだという事実になかなか向きあえませんでした」
という著者の、二親を亡くしたことへの悲しみを綴った一文だった。
やがてくるその時。著者には兄弟、配偶者や子供がいるが、私にはそれもない。ひとりでその事実と対峙するとき、おそらく、この家と距離をおこうとしている今の自分の姿が、どういうものであったのかがわかるだろう。これ以上ない明確さで、見えてくるだろう。
父の食べ方を気にしながらの食事は落ち着かず、気がつくと自分は20分で食べ終えていたりする。日々その場その場での必須事項に追われて時が過ぎてゆく。始めなければ。そのときのために。
そうは言っても、どこかで、このまま、がまだまだ続くと思っている。まだ、この家で晩ごはんをつくり、3人で囲む日々が。
庭の柿の木から大きな葉が落ちる。思いがけないほどの赤い葉。意識しているよりも、この家への思い入れはあるのかも知れない。枯れ葉を掻き分けるようにして、心の底にある親密さを、探してみる。
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