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忘戦歌04

忘戦歌01
忘戦歌02
忘戦歌03
上記からのつづきになります。

沖縄が日本復帰へ

そんな中、戦後27年目にあたる1972年、沖縄は米軍の統治下から日本への復帰を果たす。それによって右側通行だった車は左側通行へ、通貨はドルから円へ。あらゆる制度や社会状況が変わっていくと共に物価も急激に上昇。ただでさえ楽ではなかった春子たちの生活は苦しいものとなった。

高校教師をしていた秀幸の給料だけでは心許なく、共働きをせざるを得なかったが、右腕のない春子は就労に就く事が叶わなかった。

そんな中、春子は“戦傷病者戦没者遺族等援護法”(通称:援護法)による障害年金の申請を行おうと役場へ向かうが、思わぬ出来事が災いする。

この援護法というのは、戦争によって負傷や死亡した軍属(その遺族)及び戦闘協力者に支払われる補償金で、通常の戦争被害者は対象外になっている。ただし、地上戦のあった沖縄の民間人犠牲者は「軍の要請により戦闘に協力した」といういくつかの条件があり、それに当てはまれば「準軍属としての戦闘協力者」として補償を受けとる事ができる。当然、春子も住んでいた村を日本軍へ提供していたり条件に当てはまる。

しかし、その対象条件の中で1939年以降出生の者は対象外になる。それは、6歳以下の子どもは戦争に貢献しておらず補償を受け取るにあたいしないということでもある。

ただ、1938年生まれの春子が戦争で負傷した当時は満7歳だったため、春子は本来、条件を満たしていたのだが、戦後に父親が春子の生年月日を1940年生まれとして、良かれと思って戸籍簿に提出したことが足枷となったのだが、ひょうんなことから春子の存在をきっかけに世論が動くことになる。


テレビ出演

その年、沖縄が日本復帰したということで、フジテレビは戦後を生きる沖縄住民の生活をおさめようとしていたところ、その白羽の矢は春子へ立てられたのだった。

そして、春子とその家族の生活を描いた「カアチャンの右手はどこに」というドキュメンタリーが放送される。その映像は春子とその家族の素朴な生活が淡々と映されているもので、特段なにかを問題提起したようなドキュメンタリーではなかったものの、そのシーンの一つに、戸籍簿の訂正と障害年金の申請を行うため役所と裁判所へ足を運ぶが、審査を受けられない春子の姿もおさめられていた。

この放送をきっかけに、日本各地で「戦争の被害を等しく受けた人たちが、なぜ年齢によって貢献度が決められ、保証されないのか」と問題視する声が高まり、そしてその世論は政治を動かし、当の春子が知らぬ間に、戦争による障害年金の年齢制限は撤廃される事となった。


現代へ

それから約20年の時を経て春子には孫ができた。孫は春子から戦争の話を聞かされて育ってはきたが、大人になる頃には曖昧な記憶ばかりが残っている状態であった。

そして、2020年8月。
春子は通院していた病院内で新型コロナウイルスCOVID-19に感染。

COVID-19は血栓症を併発するリスクが高まると言われており、春子は脳内で血栓ができ、脳梗塞で倒れたのだった。

なんとか一命はとりとめたものの、春子には後遺症が残る。

戦争で失われた右腕とは反対側の半身が麻痺し、右足しか動かすことができない状態の中、現在、施設でリハビリをしながら生活をしている。家族も面会できなかったが、一時帰宅のタイミングがあり、孫と春子は直接話ができる機会が訪れた。

そうして春子から聞いた話を時系列順にまとめている内に、今まさにこの文章は、孫である僕のところまで時間軸が追いついてきた。

祖母である春子の話を改めて聞いてみると、僕が知っているものよりもはるかに壮絶なものだった。本当はもう少し細かなディティールで書いてもよかったが、今回、感情に訴える文章にならないよう、意図して記録簿のように淡々と書いている。
それでも、時代や人や偶然などに翻弄されながら彼女がどれだけの血や涙を流して生きてきたかは想像に容易いはずだ。
不覚にも、僕がこうして生きている事さえ奇跡的なことなのだと思いしらされてしまったという、どうにもありきたりで、それでもそう思わざるをえないような感想で、この春子の記録を締めくくる。


春子からの話を聞いた僕は、あんなに快活な祖母が想像以上に悲惨な境遇を生きてきていたことに多少の戸惑いを感じていた。
それと同時に、とあることが気になりはじめた。

僕のもう一人の祖母はどんな人生を歩み、どういった事を考えているのだろうか、と。
また、違った見方があるような気がして、僕はもう一つの戦争の話を聞きにいくことにした。

つづく

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