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忘戦歌02

忘戦歌01からのつづき

失われた右腕


「米兵からは何を差し出されても食べてはいけない。毒やクスリが入ってるかもしれない。」
そう教えられていた春子は、米兵から差し出された食事を拒んだ。
すると、米兵は口を大きく開けて見せ、クラッカーの一枚を食べ、牛乳も飲んで見せる。
そして、再度口を大きく開けて全部飲み込んだことをジェスチャーで伝える。それが「毒などが混入していない」というアピールであることを理解した春子は久しぶりの食事を摂ることができた。

米軍の捕虜施設に連れて行かれると、複数の列に並ばされる。どうやら、傷の程度によって並ぶ列が違うようだった。並んだ列の先で春子はすぐに右腕の治療を施される。

洗面器の上に置いた右腕に注射をされると、すぐにウジがポトポトと死んで洗面器の中に落ちていく。それから、麻酔を打たれ意識は遠のいた。

目を覚ますと、春子の利き手だった右腕は肘下から先が切り落とされていた。

しかし、縫合した腕からも破傷風は広がっていたようで、自分でも気づかない内に春子は体力を失い、口を開くことも体を動かすこともできなくなっていた。

「この子はもうダメかもしれない」と言う日本人看護師の言葉が耳に入ってきた。
虚ろな状態の春子に聞こえているとは思っていなかったのであろう。しかし、春子はその言葉の意味が分かっておらず「なにがダメなんだろう?」と不思議に思うだけにとどまった。

日に日に衰弱していく中で、春子の意思を強く引き留めていたものがあった。
それは、枕元に置かれていたアメリカ製のお菓子で、春子の目にはそれがとても美味しそうに映った。
どうしても食べたくてしようがなかった春子は必死で左手を伸ばす。
ただ、自分の意思でも口を開くことはできないため、指でお菓子をすり潰し、それを欠けた歯の隙間に入れ込んで食べるのだった。

そんな春子の元へ見回りにきたアメリカ人はお菓子を食べさせるための協力をしてくれ、お菓子とミルクを口に流し込んでくれるなど連日熱心に看病をしてくれた。

その後も、失われたはずの右腕の指などをウジに噛まれた時の痛みがぶり返す幻肢痛にも悩まされたりもしたが、春子の容体は徐々に回復へと向かっていった。


孤児院での生活

春子の親戚で生き残った者はごくわずかであり、その内の誰も春子が生き残った事を知っている者はいなかったため、戦後しばらく春子は孤児院で生活することになる。

気づけば約1年の時が経っていた。

その間、孤児院に春子を訪ねて毎日欠かさずやって来てくれるアメリカ人の老夫婦がいた。彼らは「あなたの義手を作ってあげるから、私たちの養子にならないか」と語ってくる。
しかし、春子は「もし父が生きていたとしたら、いつか自分を迎えに来てくれるかもしれない」という希望を抱き続け、ずっと「NO」と答えるばかりだった。

それでも、その老夫婦は1日も欠かさず春子に会いにきてくれた。
そして、春子はある時、英語のできる保母さんに「なぜ、あの2人はわたしを自分たちの子どもにしようとするの?」と尋ねると、「2人には子どもが居ないから、親を失ったあなたと家族になりたいのよ」と言われる。

春子は覚悟を決め、「わたしは、あなたたちの子どもになっても良いよ」と伝えた。
するとその老夫婦はえらく喜び、春子のためにまるでウェディングドレスのような真っ白で綺麗な洋服をプレゼントした。

「あなたとアメリカで一緒に暮らすために準備をするから、また15時に迎えに来るよ。身支度をして待っていてくれ」と、2人は一度その場を去ったのだった。

しかし、15時になる直前に予想もしない出来事が起きた。
なんと、春子の元に実の父親が迎えに来たのだ。

知人から「お前の娘によく似た子が孤児院にいるらしい」と聞かされ、それを確認するために父はその場でヒッチハイクをして駆けつけてきたのだった。

春子はアメリカへと向かう直前で、血の繋がった父の元に帰ることを選んだ。


悲惨な家庭環境

父親に引き取られてからは船越という地域にある小学校に通う。

本来は小学校3年年の年齢だった春子だったが、戦争で戸籍簿が焼けてなくなったのを良い事に父が春子を小学校一年生から通わせるため、2歳分の年齢を偽り戸籍の申請を行った。

この船越での学校生活は、自分と同じように手や足が無い子どもたちばかりと障害者学校で過ごし、約2年間は穏やかな生活を送ることができていた。

また、その頃に春子は母の遺骨を掘り起こしにもいく。時が経っても母の埋めた場所を忘れるはずもなく、再びあのガジュマルの木の下へやってきた。どうやら、叔父の骨は動物に食い荒らされたのか、遺骨は半分程度しか残っていなかったが、母の骨は指輪まで一緒に綺麗に残っていた。

それから小学校3年生になる頃に引っ越しをすることとなった。

父には18歳も歳の離れた愛人がおり、その愛人にも夫がいたが、不倫関係の末にお互いの間に出来た子どもと共に暮らしていた。
血のつながらない春子の存在を好ましく思っていなかった継母は、家事をせずに勉強しようとする春子から教科書や勉強道具を取り上げ、カマドの薪と一緒に燃やすなど、父の見えないところで執拗に春子を傷つけてきた。

さらに新しい学校では、下校時に歳の近い男子から日常的に殴られるようになる。

「なぜ、わたしとあなたは口も聞いた事もないし遊んだこともないのに、そのようなひどい事をするの?」と尋ねると、「お前みたいに腕もない、ウソの親と兄弟しかいないような可哀想な人をいじめなかったら、一体、誰をいじめれば良いんだ。」と言われた。

春子は「次に戦争が起きたら、あなたは手も足も無くなれば良い」と泣くことしかできず、その時から70年近く経った今でも、相手の名前を忘れることもできない。

また、そのイジメが辛すぎて春子は小学3年生で学校へ通う事をやめてしまう。

父に、その男子の家に行って叱りつけて欲しいと訴えたが、継母はその男児の母親と友人だった事もあり、春子の訴えは退けられた。

さらに継母は「あんたはもう学校に行かないで良いから働いてきなさい」と、ヨソの家庭のベビーシッターの仕事を春子に押し付け、強引に家から追い出すのだった。


奉公時代

戦前、佐久眞家は新城地区というところでは5本の指に入るほどの資産家だったが、春子の父はリウマチで働くことができなかったため、父の代わりに働きたくはなかった継母により数多く持っていた土地は軒並み売られてしまった。それに加え、春子のベビーシッターの報酬さえ継母が全て手にし、春子は後原という地にある見知らぬ家庭に住み込み、学校にも通えない中でのタダ働きをさせられ続けた。

後原のその家は、戦争で生き残った父と子どもたちだけで暮らし、母は亡くなっていた。父は車の運転手として働き、春子と同じ歳の娘は学校へ行くため、まだ幼い子どもを見る者がおらず、ベビーシッターとして春子は雇われたのだった。
しかし、そこの娘は本来父から頼まれていた掃除や洗濯などの家事を春子に押し付け、父には自分が全ての家事をしているかのように振る舞っていた。

それを知らない父は「春子がウチにきてくれて娘まで家事をしっかりやってくれるようになった」と近所の人たちに自慢していたのだが、日頃の春子の働きを見ていた隣近所の人が、「あんたは自分の娘がやってると思ってたの?あんたの家の家事は春ちゃんが毎日子守りしながら洗濯も掃除も全部やってくれてるんだよ。」と、春子にとっては黙っていて欲しい事実が告げられたことによって、これまでチヤホヤされてきたその家の娘は案の定、春子に対して怒りをぶつける。

「あんたがいると私が出来損ないのようになるから、この家から出て行って!」

そう言われた春子は、その言葉の通り、この家を去ることになる。
ただし、実家に帰っても自分の居場所がない事は分かっていた春子はどこに行ったら良いのかも思いつかないまま、当てもなくただただ歩き続けるしかなかった。

頼る人もおらず、たった1人で路頭に迷った春子の年齢はその頃わずか12歳程度だった。

忘戦歌03へつづく

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