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忘れられない光景 - シカゴの片隅で見たもの

エビングハウスの忘却曲線というものをご存知だろうか。
人の記憶の忘却について表した理論で、それによると時間の経過と人の記憶の相関というのは以下の通りらしい。

20分後:42%を忘れ、58%を覚えている。
1時間後:56%を忘れ、44%を覚えている。
1日後:74%を忘れ、26%を覚えている。
1週間後:77%を忘れ、23%を覚えている。
1ヶ月後:79%を忘れ、21%を覚えている。

今覚えた事も一ヶ月すると8割方消えてしまうという。(自分は記憶力が弱いので9割方忘れていそうな気もするが)
何と脆弱なメモリーシステムなんだろう。

この話の通り、人の記憶というものは本当に脆いもので、数ヶ月前の旅行の思い出すらすっかり曖昧なものになってしまった。鮮明なのは楽しかったという感情のみ。
まぁ、それがあれば十分な気もするが。
何処で何をして何を見て何を食べたか、その輪郭は当然覚えているけれど、鮮明な映像を思い起こすのは中々難しい。それこそ写真でも見返さない限り。

そんな中、私が数年経っても未だ鮮烈に覚え続けているとある光景がある。
オレンジのスポットライトに色とりどりの電飾、壁に描かれた沢山のペンキ絵。手書きの演者紹介、軋む床、常連の馬鹿笑い、少しツンとくる変わったカクテルの匂い。そしてステージ上で楽しげに歌うブルースマンと、一緒になって歌い踊る観客たち。
閃光のように眩しく映ったその光景は、その体験は、脳裏に刻み込まれいつまで経っても忘れる事が出来ない。

その場所はシカゴにあるブルースクラブ、"KINGSTON MINES"
ダウンタウンから北に4マイル、リンカーンパークエリアの住宅街に佇む、オレンジにオーニングが目印のこの店だ。

1968年から続くこの歴史ある店はシカゴで最も有名なブルースクラブの一つで、Most Popular Blues Club Awardをはじめとして数々の賞を受賞しており、世界中からブルース好きが集まるという。

365日休む事なく営業するこの店の最大の特徴は、2つあるステージで2組のバンドが交互にノンストップで演奏し続ける、という点にある。
夜7時頃から太陽が昇り始める明朝4〜5時まで、ここでは音楽が鳴り止む事はない。
入るのに必要なのはIDと15ドル程度のカバーチャージのみ。

Koko TaylorMagic Slimなど、シカゴブルースのレジェンド達もここで演奏したという。
今このステージに立つバンドも、その歴史に恥じぬ素晴らしい腕前のパフォーマーばかりだ。ブルースクラブというが、たまにソウルやファンクやメロウなポップも聴けたりもする。

自分が初めてこの場所に来たのは7年程前になるだろうか。
今ほどアメリカ旅行にも慣れておらず、当然こういうブルースクラブにも来た事も無かったのだが、宿が近かった事と折角シカゴに来たからには...という想いでこの店の扉を叩いた。
店に入った時には既にライブは始まっており、バドライトを手にして空いていた前方の席に座る。
ステージでは大柄な黒人の老人シンガーがしゃがれ声で歌っていた。ギターも弾きながら。
ブルースはよく知らなくて、曲名は分からないが渋い声と巧みな演奏に一瞬で魅了された。
そのまま数曲、ブルースの世界に浸っていると耳に入ってきた聴き覚えのあるメロディ。これは知ってる。Sweet Home Chicagoだ。

この街、シカゴではやはり誰もが知るアンセムのようで、皆が大声で歌い始める。肩を組み、ビール瓶を高く掲げて、楽しそうに笑いながら。皆の歌が重なって大合唱になった。
若いカップルや熟年夫婦も踊りだす。気の利いたコールアンドレスポンスで気付くと自分も大声で歌っていた。ああ、何て幸せなんだ。
老いも若きも、男も女も、ローカルも旅行者も外国人も皆がこの空間の中、音楽を介して混じり合っていた。
子供の頃から憧れ続けたアメリカの原風景がそこにあった。そして自分もその一部と化していた。
喜びや感動や興奮や達成感、あらゆる感情が混じり合って涙が出そうになった。ひょっとすると泣いていたのかもしれない。
そのまま酒とブルースに酔いしれて、時に踊って笑い合う。鳴り止む事のない音楽に揺られ、夜が終わらない事を願いながら気付けば朝の5時。
ホテルまでの帰り道、氷点下を軽く下回る寒空だったが、そんな事はどうでも良かった。何度も何度も頭の中でSweet Home Chicagoの大合唱を思い出していた。幸せを噛み締めながら。
それまでは他所の国に来た部外者という感覚が如何しても拭えなかったのだが、此処に来て初めて自分もアメリカの一部になれた気がした。
その時、この経験は忘れるわけ無いと思ったが案の定、未だ残り続けている。

自分が未だにアメリカ旅とライブミュージックに拘り続けている理由がそこにある。
あの光景やあの感情を覚えている限り、またそれを味わう為にこれからも何度だって行くつもりだ。

この店の魅力は音楽や雰囲気や店構えだけじゃなく、人もとても親切なのだ。この店のモットーがそれを表している。

“Hear Blues, Drink Booze, Talk Loud, You’re Among Friends.”
(ブルースを聴いて、酒を飲んで、大声で喋って、もう君は仲間だ。)

シカゴを訪れたのはまだ2回だけで、通算で10日ぐらいしか滞在してないがKINGSTON MINESには既に7-8回行っている。ほぼ毎日だ。あの場所で音楽を聴いてから眠るというのがシカゴでの自分のルーティンだ。
最後の方はすっかり顔も覚えられ、声を掛けられるようになった。「今日も待ってたよ」と。

これが決して忘れられない大切な経験。
アメリカ旅の本当の楽しさを教えてくれたKINGSTON MINESの事は永劫決して忘れる事は無いし、これから何度だって訪れようと思う。
さて、次はいつシカゴに行こうか。

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ここからは余談だが、KINGSTON MINESの斜め向かいにあるB.L.U.E.S.も素晴らしいブルースクラブだ。
小さな店内は数十人で一杯になってしまう程の狭さだが、その分ステージとの距離も近く迫力が凄まじい。勿論パフォーマンスも最高だ。

上の写真の通り、店の雰囲気も見た目も凄まじく味がある。
とあるサイトではBEST BLUES CLUB in USに選ばれる程で、ブルース界では一種のメッカのような場所なのだ。

もしKINGSTON MILESに行く機会があれば合わせて行く事をお勧めしたい。

シカゴはNYとLAの陰に隠れがちだが、ブルース・ジャズをはじめとした音楽に芸術に建設、景観や食事、エンタメ、スポーツと何もかもがあり、その全てが高品質の最高の街だ。
アメリカの大都市に興味があるなら是非この第三の都市も候補に入れてみて欲しい。後悔はしないはずだから。

最後まで読んで頂きありがとうございます。