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エッセイ | こどもの声が感情の蓋を開く

朝早くに起きて活動を開始していると非常に静かでいい。する音とすれば、自分の部屋から出ている音のみで、日中にするような車の行き交う音や、近所の住宅から聞こえてくる音などは無い。

起きてから1時間ちょっとすると隣の部屋の人が活動をし始めるのが分かる。住んでいるマンションは鉄筋コンクリート造なのだが、隣の部屋の音が時々聞こえてくる。聞こえてくる音はカーテンと扉の開け閉め程度なのだが、恐らく反転した間取りに住んでいるためか、どこの扉が開いたのか、どこに行ったのかがなんとなく分かる。

それから30分ほど経つと、向かいのマンションに住んでいるで子供の声が聞こえてくる。恐らく小学校には上がっていないであろう幼い声だ。

向かいのマンションには核家族が多く住んでいるように思える。土日になるとベビーカーを押した母親と子供が出かけて行ったり、家族揃って車で出かけていく様子をよく見かける。私が住んでいるマンションが単身者用のため、対を成すかのようにお互いが建っているのである。正直あちら側の生活は、こちらから見ると華やかに見えてしまう。

それというのも、こどもの声はかなり彩を与えていると思う。

大人の声が外から聞こえた場合は身構えてしまう。特に男性の低い声が聞こえた場合は緊急事態と言わんばかりに脳内はビックリするだろう。よそ行きの高い声とかならまだしも、私の住んでいるエリアではたまに相手を威嚇するような声で話している大人も居るため油断ならない。

だが、こどもの声は良い。聞いているだけで子供の感情が伝わってくる。
向かいのマンションに何世帯の核家族が住んでいるのかは分からないため、いつも聞く声が同じ子なのか、違う子なのかは判別できない。というよりも、特に判別しようとも思っていない。ただ、同じ時間帯にするこどもの声は、同じ子なのではないかと思っている。

よくその子は「おかあさーん」と叫んで母親を呼んでいる。その後に母親の声はせず、それ以降その子の声もしなくなるため、恐らくマンションの共用廊下で母親を呼びながら自分の家へ入っていっているのだと思う。
その「おかあさーん」と呼んでいる声が良いのだ。

ある日はすごく嬉しそうに呼んでいる。何かおもしろいものを見つけて、それを母親に見てもらいたいのかもしれない。自分が見つけたものを自慢して、褒めて貰いたいのかなと考えてしまう。
別の日にはお願いするかのような声が聞こえる。玄関の扉を開けてほしいのだろうか、遊んでほしいのだろうか、その子が何をして欲しいのかを少し考えてしまう。
また別の日には文句を言うかのように呼んでいる。何か嫌なことがあったのだろうか。そうであったとしても、恐らく母親に向ける感情としは間違っているんだろうなと思い出す。子供の怒りの矛先は、訳もなく母親に向くものだ。私もそうだった。今思い返すと、どうしようも無い怒りを子供は母親に向けてしまうんだな。その相手をする母親は凄いものだ。

同じ「おかあさーん」という呼び声だけでも、こどもの声を聞くと色々な感情が湧き起こる。朝からうるさいなと感じる人も周辺には居るのだろうけれど、感情の起伏が無くなった私の生活においては、こどもの声を聞くことで感じることの少なくなった感情を思い起こすことができ、人間らしい生活ができている気がする。

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