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#127 「不死」は残酷なもの【一笑門 マガジン】

どうも!海先輩です!

このマガジンでは、毎朝配信しているPodcastプログラム「海先輩の一笑門RADIO」の内容を発信しております。

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死について考えることってなかなか無いと思います。

でも死というのは必ず全人類が迎えるもので、避けては通れません。

「明日死ぬかも・・・」と思って過ごす1日は、また普段と違った日になりそうですよね。

そして世界には、不死の科学を研究している人も多くいます。

不死はまるでSFの世界のようですが、医療やITの技術革新で、不死が可能になるという見方もあるようです。

一見、不死というと人類の夢のように感じますが、実は不死になると残酷であるという考察があります。

おはようございます。海先輩です。

今日は「不死」は残酷なものというお話です。

僕は毎朝日経新聞を読んでいるのですが、最近「『不死の
科学』は残酷な嘘」という記事を読みました。

アメリカのテクノロジー企業の創業者の中には、不死の科学を研究している企業に出資をしている人もいるそうです。

この記事ではエール大学の哲学者、シェリー・ケーガン教授が、人類が古来から夢見ている「永遠の命」は本当に幸福なのか?というお話をしていて、結論からいうと、それは残酷だということでした。

最新の科学では、マインドアップロードと呼ばれる人間の意識を電子的に保存し、移植するという可能性を探る研究が始まっているそうです。

例えば自分の体が衰えて機能しなくなったときに、意識のデータを取り出して別の人工的な身体に入れるという技術なのですが、果たしてこれは「自分」だと言えるのかという疑問をシェリー教授は投げかけていました。

シェリー教授は、移植した意識はただのコピーでしかなく、「私の模造品」だと言っています。

たしかに自分の死後、自分の思考がアーカイブとして残り人々に知ってもらえるのは、ただ死んでしまうよりは良いが、幼少期の自分と今の自分が違うように、人は加齢とともに変化していきます。

アーカイブである「私の模造品」は、甘いスイーツを味わったり、美しい夕日に見惚れたり、愛する人と手を繋いで海辺を散歩するといった新規の体験はできません。

つまり「私の模造品」には変化がなく、これこそが生身の自分と決定的に違う点です。

さらに、感銘を受けた話がありました。

僕たちはみな、誰かを愛し、それは相手が持っている特性のためです。

例えば、頭がよくて、容姿が優れていて、ユーモアと思いやりがある誰かを好きになったとします。

もしその全てを優越するような別の誰かが現れたとき、あなたは最初に愛した人のもとをすぐに去りますでしょうか。

このことが、「私の模造品」が私の代わりにならないことを示しています。

また、もっと身に染みて模造品が残酷だと感じるには、自分が誰かの模造品だと知ったとき、どんな気持ちになるかを想像すると分かりやすいと言っていました。

自分は80年生きてきたと思っているのに、実は15分前に誰かの記憶を移植されたクローンだったと知らされたら、すぐに受け入れることは難しいですよね。

この記事を読んで、人って尊い生き物だなって思いました。

どんなに技術が発達しようが、自分の代わりになるものは決して生み出せないです。

自分を生み、ここまで育ててくれた両親に感謝し、今日も精一杯生きていこうと思います。

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