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芸術摸倣説

 ヒトが生まれるはるか以前から存在していた「音」から奇跡的に〈音楽〉と〈言語〉が誕生し,西洋哲学の世界では,〈言語〉が〈音楽〉の上位概念として存在してきた,ということは,前回の記事で述べた通りである。今回は,そのことついて,もう少し詳細に述べていく。

 古代ギリシア人は,〈芸術〉を「摸倣(ミメーシス)」とし,「現実の模写である」と考えてきた。この〈音楽〉を含めた〈芸術〉について,その有用性や真実性を疑うプラトンや,医学的な価値を見出すアリストテレスなど,これまでにさまざまな視点から模倣説が唱えられてきたが,これらは結局のところ,〈芸術〉を〈ことば〉によって説明しようとしたものであった。

 例えば,ヒトが生まれる前に存在していた海の「音」には,解釈の入る余地など無かったであろう。しかし,ヒトの耳が,海の「音」を記述しよう,と決めたとき,そこに「摸倣」という概念が発生した。この無垢な体験は,この無垢な体験としてのモノ・コトをとりあえず写し取っておきたい,という古代ギリシア人たちの欲望から,その存在価値を〈言語〉によって問われるようになった。つまり,無垢な体験にすぎなかった〈芸術〉以前の混沌に,〈言語〉による価値の概念を持ち込んだのだった。

 こうして,〈音楽〉は弁護を必要とする疑わしいモノにならざるを得なくなり,その結果,〈音楽〉の本質とは,鳴り響く空気としての〈音楽〉そのものではなく,〈言語〉によって解釈されたものである,というおかしなテーゼが生じることとなった。このことが,〈言語〉が〈音楽〉の上位概念として存在してきた所以である。これぞまさにジャック・デリダが批判する〈ロゴス中心主義〉と呼ばれるものであろう。

 デカルト以降,近代哲学において,このような二項対立を打破しようとする動きがみられるようになるのだが,〈ロゴス中心主義〉の詳細含め,この続きはまたの記事に。


Yuki ISHIKAWA

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