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子どもと問う#16 人間の条件―愛と幻想とオシッコのファシズム

子どもと問う#16
人間の条件―愛と幻想とオシッコのファシズム


子育てとはファシズムである。

煽情的な一文から始まったこのエッセイだが、この後は“オシッコ”と“トイレ”の話しか続かないので、苦手な方はどうぞまたの機会にお尋ねください。

ということで、ここには“オシッコ”と“トイレ”とたまに“オチンチン”なんて単語が出てきてもどんと来い! むしろ大好物!な方々しかいないと、読者に偏見を持ちながら書いていきたいと思う。



息子3歳がトイレトレーニング中である。そろそろオムツを外して、自分でトイレを済ませなければならない。
そう出来るように教えるのが親の責務だ。トイレトレーニングとは人間を社会化させる第一歩とも聞く。頑張れ月美! 大丈夫! お前は第一子の時もちゃんとやれたではないか! 第二子の息子くんなんて楽勝だ! と、私の中の松岡修造が励まし続けてくれたのだが、全く楽勝ではなかった。
だって第一子は娘で、第二子は息子だ。私にも娘にもついていない“オチンチン”がある。パパに頼みたいところだが、あいにく単身赴任中。“オチンチン”のない私がどげんかせんといかん。


とは言っても、問題は大き方ではなく小さい方だけ。つまり「オシッコの仕方」をどう教えるかだけだ。
まずは現代社会の教祖、Google先生に聞いてみる。ダメだ。即、挫折。Google先生は情報が多過ぎて私には取捨選択が出来ない。「チンチンムキムキ体操」ってなんだろう。

Google先生の多様性が過ぎるご提案を全部無視して、とりあえずママの独断で“立ちション”か“座りション“かの二択にしてみた。
どうやら園では”立ちション“らしい。そこに合わせていくか。いや、最近は「立ちションはトイレ掃除が大変だから、男性でも座りション」という話も聞く。ちょっと誰かに聞いてみよう。
しかし、私にはママ友がいない。てゆーか、友だちがいない。困った。


そこで哲学対話仲間に聞くことにした。
人間関係を築くという上でも哲学対話に助けられている。ありがたや。

Tさん(男性)「ポリコレ的には座りションを推したい。しかしオチンチンの付き方によってはかえってトイレを汚す危険がある。だが、立ちションが最適解とも思えない。第三の道を探す必要性がありそう」
Mさん(女性)「よくある形のトイレ全てでオシッコ出来た方が楽しいし便利なのでは。自分が少年なら壁についている小便器でオシッコするのは楽しそう。ただ、洋式では楽しまずに粛々と座ってやれ」
Kさん(男性)「オシッコの快楽は常に『解放』である。庭の木・友達と立ちションのクロス・お風呂・高い場所から絶景を眺めながら・・・。しかし、これは外で性器を露出することへ危機感が少ない男性特権なのでは。立ちション特権は許されるのだろうか」


さすが考えることが大好きな哲学対話民である。皆の意見を総合すると、どうやら選択肢の多さが必要であり、固有の方法論に縛られるのは良くないということらしい。ご回答ありがとうございます。

だが、そんなご回答の数々を頂いて、まず私が思ったのはお前らマジ役に立たねーなであった。

いつもお世話になっている仲間たちには超申し訳ないが、考えてみろ。
3歳児が「オシッコに行きたい」と言った時に「座ってする? 立ってする? ママはあなたの自主性を尊重するわ」などと返したら、結果は一つ。“おもらし”である。
3歳児にとってオシッコとは“今そこにある危機”なのだ。

ママは圧倒的ファシズムによって、息子のオシッコの仕方を決めなければならないのであり、その独裁の下で息子はトイレのやり方を覚える。それがトイレトレーニングだ。

我が家は洋式トイレなのでMさんの意見をかろうじて取り入れ、粛々と座ってさせることにした。第三の道や解放を覚えるのは、まだ先にしてもらおう。

そんなこんなで、息子は粛々とトイレのやり方を覚えた。
座ってしながら、便座の蓋を背中に倒し「ママ! 亀だよ、亀!」とふざける程の余裕も出てきた。


しかしそんなある日、事件は起こった。
息子は3歳だが、娘は6歳で弟にちょっかいを出したい年頃である。息子はそんなお姉ちゃんのからかいに本気で怒る年頃でもある。

甘えん坊の息子はいつも通りお風呂前、トイレに行くときに「ママ、ついてきて。見てて」と言った。私は、今日も上手にオシッコ出来た息子を褒めてやらんと、トイレの扉を開けて便器に跨る息子の前にしゃがみ込んだ。
するとお姉ちゃんである娘がやって来て「私も見る〜」と言い出したのだ。

息子は「お姉ちゃんには見て欲しくない! ママだけが良い!」と言って怒った。弟が怒れば怒るほど面白くなってくるお姉ちゃんは、私が「向こう行ってなさい!」と叱ってもニヤニヤしながら私の隣にしゃがみ込むだけだった。
「やだ! お姉ちゃん、向こう行って!」と喚きながらも、トイレに跨っているので文字通り手も足も出ない息子は、なんとお姉ちゃんに向かって唾を吐いたのだ。
これには私がキレた。人に向かって唾を吐くなど断じて許されることではない。「何すんの!」と私が怒った瞬間、悲劇は起きた。

どうやらTさんが指摘した通り、息子は指で抑えていないと座ってしても飛び散るタイプのようで、私が怒ったことで泣き出し錯乱状態に陥った息子は、泣いたと同時にオシッコをした。指で抑えずに。

そういう時はどうなるか。

私は息子のオシッコを勢いよく顔面で受け、からかった娘も飛びションし、息子は涙と汗と唾とオシッコと、体中の穴という穴から液体を噴出させ、我が家のトイレは地獄と化した。

風呂前だったのが幸いして、全員丸洗い、全トイレカバー丸洗い、床に壁にを掃除しながら、私は数少ないこの世の真理を得た。

「オシッコの時はとにかくオシッコをすべきだ」


繰り返しになるが、子育てとはファシズムである。
母という権力者は、子どもに対して大きな権限を持つ。
それは「あなたのため」という建前でコーティングした独裁であり、母は子どもがどのように振る舞うべきか、常に監視し規定していく。罰を与えたり導いたりしながら、いつまでも子どもを子どもでいさせて自立心を奪うことすら出来る。
権力者として、そのことに自覚的でありたい。だって、子どもが子どもを卒業するために私は権力を振るっているのだから。
「母になれば、なにが子どものためになるかがわかる」なんて神話は、トイレトレーニングの前に脆くも崩れ去った。


オシッコを顔面に浴びながら、私は自身の権力をひとまず大いに振るおうと心に決めた。
我が家は座りション。人に向かって唾は吐かない。オシッコの時はオシッコに全集中。


しかし息子は、近いうちに絶対的権力者のフリをした母の愚かしさに気付くのだろう。ハリボテのファシズムを破壊しにかかるのだろう。思春期や反抗期は、そのためにあるのかもしれない。
その時が来たら、ちゃんと謝ろうとも心に決めた。


Kさんは「オシッコの快楽は常に『解放』である」と言ったが、息子が主体性を獲得し自立に向かうとき、一番『解放』されたいのはきっとこの私からである。
その日が来たら、また唾を吐かれションベンかけられても当然なのだ。それこそが、母の醍醐味のような気も、今はしている。その時になってみないとわからないけど。またキレるかも。


愚かなファシストは、そんなことを考えながら、今日も自身の権力を振るっている。
ようやく、息子はオムツから卒業した。





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